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![]() ラ・パス移住地市街地への入り口 |
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![]() 空から見るラ・パス移住地市街地 (写真提供:ラ・パス日本人会) |
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ロッテの調査現在のラ・パス移住地は、移住開始当初はフラム移住地と呼ばれ、戦後のパラグアイの移住地としては日パ混合の国際移住地であるチャべス移住地に続いて2番目、戦前のラ・コルメナ移住地から数えると3番目の移住地として、パラグアイ初の日本海外移住振興株式会社の直轄移住地として設立されました。
戦後、1953年から入植がはじまったチャべス移住地は、日本の活発な移住事業の推進により次々と移住者を迎え、1955年には早くも満植を迎えました。第4、第5次船組が到着した時には、既にチャベスに入植に適した土地がなくなってしまったため、その一部の家族がチャべスに隣接するフラムに赴き、フラム土地拓殖会社との直接交渉により分譲を受け、1955年8月20日に12家族が入植したのがそのはじまりです。
移住者とその家その後、現在の国際協力事業団(JICA)の前身である日本海外移住振興株式会社は、1956年に現地のフラム土地拓殖会社所有のうち15,952haを、購入価格26,600千円で分割購入して造成を開始しました。そして1956年6月14日には第一陣が渡航したものの、現地では本格的な造成は進んでおらず、初期の入植者の生活および開拓の苦労は並々ならぬものがありました。そしてその後1960年の満植を迎えるまでに342家族が入植し、現在の入植定着数は197家族となっています。(2002年1月現在)また、現在の移住地の総面積は約19,800haで、そのうちの日系移住者(ラ・パス日本人会会員)所有の面積はその64%となっています。
なお、フラム移住地を構成する3地区それぞれの入植の経緯などは、以下の通りです。1971年11月にこれらの3つの地区が統合し、フラム自治体が発足しました。その後1988年には念願であった電化が実現し、1989年に市制が施行され、現在のラ・パス市となっています。
※ここまでの歴史写真は、パラグアイ日本人移住60年史「未来への挑戦」より引用しました。
■富士地区
日本海外移住振興株式会社によってフラム移住地が造成される以前、チャベス移住地への第4次および第5次船でやって来た移住者が、チャベス移住地では適地がなかったため、日パ拓殖株式会社の助言に従いフラム土地拓殖会社から土地を購入して入植したのが始まりです。その後、第6次船13家族、第7次船7家族、1955年には合計35家族が入植したことをうけて、富士地区の初年度となりました。
協和村 セントラル小学校
(写真:「みどりの大地」より)入植は船次ごとの団体行動が中心であった為、1955年10月に初の村である大和村が誕生した後、後続移住者たちにより1957年3月に協和村、同年8月にセントラル村、1960年に愛媛村が誕生しました。しかしながら1960年をピークに転住者が続出した事を受け、分村・合併などの変動により、新しく千代田村、エスペランサ村、新生村、吉野村などが誕生するなど多くの変動がありました。その後村政だけでなく教育の問題なども関連し、1963年8月11日には富士地区が一本化し、ニッポニヤ町として発足しましたが、内部分裂により1年後には崩壊し、1967年にようやく7村が統合し、富士自治体として発足しました。
■ラ・パス地区
ラ・パス地区は、フラム移住地の中央に位置し、南に富士地区、北にサンタローサ地区に隣接した地域です。
密林を切り拓く
(写真:50年史「栄光への礎」より)1956年12月28日に、広島県沼隅町からの「町ぐるみ移住」と呼ばれた集団移住者を中心に移住が始まりました。沼隅町は瀬戸内海の沿岸部の町で、当時の一世帯当たりの耕地面積が2段3畝と各段に少なく、人口過密であったため、1955年に町長となった神原汽船(株)社長の神原秀夫氏が新天地を求めて「備後開拓組合」を結成し、「町ぐるみ集団移住」を推進しました。
ラ・パスという名称は、初代の組合長であった森大光氏により「平和で豊かな移住地に」という祈りを込めて「ラ・パス」と命名されたものです。同じく佐賀県および福岡県出身者による九州区とが、1957年に合併し、現在のラ・パス地区が形成されました。
入植当初、大木に挑む移住者
(写真:「みどりの大地」より)しかしながら入植当時のラ・パス地区は、先住者のいる大和、富士村から15キロ程度も離れた原始林で、陸の孤島とも言われるほどでした。現地の受入側の準備体制も十分でなかったため、食料補給、原始林のロッテ割りから全てを自力でやらなければならなかった上に、開拓団は携行資金に乏しく、その多くは若年層で稼働力に欠け、なおかつ農業経験者が少なかったなどの原因もあり、生活は苦闘の連続となりました。折角の生産物も販路がなく、教育、治安、道路などの整備もままならず、一年以上も無収入の上に食料・営農資金にも事欠くありさまとなり、最低限度の生活もままならなくなりました。1958年3月には沼隅町自治体結成総会が開かれ、移住生活の窮状を訴え援護を求める嘆願書を国会に送付したところ、それが日本のラジオや新聞などで大々的に厳しい開拓生活が報道され、その後の農業移民の在り方が論議されることとなりました。
その後、1967年12月にラ・パス町が発足しましたが、その後1971年にフラム自治体が発足したあとは発展的解消しています。
■サンタ・ローサ地区
大正町町ぐるみ移住当初のキャンプ
(写真:「みどりの大地」より)サンタローサ地区は、1957年高知県大正村からの集団移住者21家族および福岡県からの移住者4家族を合わせた25家族の入植に始まりました。
当時の高知県大正町は、その面積の90%が山林で、耕地面積は7百戸の農家に田畑あわせて400町歩に満たず、一戸あたりの平均耕地面積が7反歩、なおかつその過半数は4反歩以下という状態で、多くの町民は林産業か出稼ぎで生計をたてていました。この農村恐慌を救う為、当時新聞で大きく報道された広島沼隅町のラ・パス地区への集団移住に引き続いて、大正町でも町ぐるみ移住が企画されました。
入植当初活躍した大正号
(写真:50年史「栄光への礎」より)副団長宗崎友信氏を中心とした25家族は、1957年3月17日出航の西回り航路で、山脇敏麿氏を団長とした本隊は、1957年4月2日出航の東回り航路でパラグアイへと向かい、未開の原始林であるサンタローサ地区に入植しました。団長山脇敏麿氏の統率のもと、天幕での共同生活をしながら山切りをし、自分のロッテ(配耕地)に仮小屋を作り新しい生活を始め、8月4日には盛大な入植祭を行い、第二の大正町が誕生しました。その後、後続移住者が続き、最終回となる1959年までに102家族が入植しました。
なお、この移住時に高知県知事より寄付された「大正号」と命名されたトヨタ・ランドクルーザーは、未開の移住地の連絡業務や病人運搬などに大活躍し、パラグアイ人の耳目を集め、その後パラグアイにおいて日本車が高い評価を得るに至ったと言われています。
移住当初から広い土地での大規模機械化農業を夢見てきた移住者も多かった中、移住当初の受入態勢の不備で移住地造成が遅れ、移住者達は原始林の中に張ったテントから各自のロッテへと通う集団生活から始まりました。
山焼きのため切倒した木々
(写真:ラ・パス農協20周年記念誌)耕地の山焼きをしたあとには、まず自給のための作物として稲、野菜、マンジョーカなどを栽培するほか、鶏、牛、豚などの家畜の飼育も始められました。そして現金収入のための作物としては、主にマイス(とうもろこし)が植えられました。マイスは作りやすく、しかも二期作が可能な換金作物として期待がかけられたものの、販売価格が安かったことと、出荷にあたってはエンカルナシオン市への道が非常に悪路で、雨が降れば何日も通れないというようなこともしょっちゅうで、営農は困難を極めました。
マイス(とうもろこし)の播種
(写真:50年史「栄光への礎」より)なお当初計画されていたのは、永年作物による営農形態で、作柄としてはポメロ(グレープフルーツ)、ジェルバ(マテ茶)、ツング(油桐)などが進められていました。ジェルバは、近隣のドイツ人移住地でもさかんに栽培されていたのを受けて、1961年から1963年にかけてサンタロサ農協(1970年にチャベス、富士、ラ・パス、サンタロサの農協が統合し、フラム農業協同組合となり、1988年には現在のラ・パス農業協同組合と改称。)によって、加工工場が設立されました。しかし、1965年にアルゼンチンでジェルバの輸入規制が行われたのを受けて不況に襲われ、販売価格が原価割れする状況となり、次々と伐採されました。
そしてポメロは、当初「10町歩植えれば、1年に一度は飛行機で日本に遊びに帰れる」と言われるほどに作付けが推進され、1966年にはアルゼンチンへの輸出も始まり移住者の期待も高まりましたが、1967年の収穫直前に柑橘類の潰瘍病が発見され、政府により強制的に伐採焼却される目にあいました。
山焼きの様子
(写真:50年史「栄光への礎」より)またこれらの永年作物が実を結び始めた60年代には、それらを囲む状況が悪化したため、永年作物と平行して、短期作物の作付け進められました。価格の安定しないマイスの他に、棉、大豆、小麦などが作付されることとなり、大豆に関しては1959年には当時の組合長である山脇敏麿氏が、大豆の販路開拓のために日本訪問し、2年間日本への大豆輸出も実行されています。
ツング(油桐)の実しかしながら移住者の営農状態は1963年の大規模な降雹、そして旱害などにより逼迫した時期が続き、永年作物が振るわなかったこの時期には、アルゼンチンへなどへの転住する者があとをたちませんでした。
また、永年作の失敗の直後には、パラグアイ絹糸工場ISEPSA(イセプサ)がアルト・パラナ(現ピラポ)移住地に乾繭工場を設立したのを受け、養蚕が盛んに行われることとなりました。しかし、1975年頃からは価格が低迷し、1983年には撤退しました。
1973年には国際的に大豆の価格が高騰し、「黄色いダイヤ」とまで呼ばれるようになり、ようやく移住地の経済は好調に向かいます。大豆の好景気に沸く移住地では、1970年には事業団からフラム農協に対してブルドーザーが貸与されたこともあり、転住者の残した土地を購入し、大規模機械農業に適した農地の造成整地が行われ、大豆の作付面積が拡張されました。
初期の大豆脱穀機による作業
(写真:「みどりの大地」より)まだ作付面積の少ない頃は、大豆の脱穀もまったくの人力で、シートの上でカラ竿やビンで叩くという原始的な方法で行われていましたが、その後に移住者自身の手で平岩式、田辺式と呼ばれる大豆脱穀機が開発され、移住地で活躍するようになりました。そして大豆の作付面積が急増するのと同時に、日本人以外でも大豆栽培がさかんに行われるようになったために、現地人の人手が不足し労賃の高騰を招き、トラクターやコンバインなど大型農業機械の導入がますます推進されるようになります。
一方、ようやく成木となったツングは、ピラポで操業していたCAPSA(カプサ)社の搾油工場や、エンカルナシオンに建設された移住事業団(国際協力事業団の前身)直営の搾油会社カイシサ社などに販売されましたが、その価格低迷のため次々と伐採され、大豆畑へと変わっていきました。
現在のラ・パス移住地の大豆畑この大豆の裏作には小麦が導入され、現在では大豆と共に、移住地の農業経済を支える柱と成長しています。またラ・パス農協では、2003年12月の操業開始を目指して、移住地内に製粉工場を建設しています。
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ラ・パス農協
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ラ・パス農協の製粉工場
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ラ・パス農協 サイロ
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ラ・パス日本人会事務局
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長寿園は日系高齢者の
集いの場 |
2002年に万博協会の協賛を受けて完成した
ラ・パス イタプア国際文化会館 |
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電化記念碑
1986年にラ・パス移住地は電化しました |
ラ・パス市役所
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Espirito Santo 教会
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ラ・パス移住地の道
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日本国旗とパラグアイ国旗の入った
給水塔と小麦畑 |
給水塔
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1998年の徳島県副知事訪問時に
作られた記念碑 |
2003年7月30日に
日本の援助を受けて開通した Ruta Graneros del Sur Paraguay Japon (南部穀物輸送道路) |
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サンタ・ロサ地区
入植記念碑 |
サンタ・ロサ地区
高知県溝渕県知事 顕徳碑 |
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サンタ・ロサ地区
拓魂碑と霊園 |
サンタ・ロサ地区
西語学校 |
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サンタ・ロサ地区
公民館 |
サンタ・ロサ地区
パークゴルフ場 |
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ラ・パス地区
西語中学校 |
ラ・パス地区
西語小学校 |
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日本大使館の草の根援助を
受けて完成した西語学校の 給食センター |
ラ・パス地区
運動場 |
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ラ・パス地区
パークゴルフ場 |
富士地区
サロン |
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富士地区
運動場 |
不耕起栽培による
大豆の蒔きつけ風景 |
●●●●フラム小唄●●●●
作 曲不 詳 作 詞谷脇 千晴
一、 七つの海越え はろけく万里
来たぞパラグァイ 夢の国
マイス畑で 歌声聞けば
モンテ暮らしも また楽し二、 山にこだます アーチャの音も
明日の希望を かなでつつ
深い眠りの 密林さえも
今ぞほほえむ 陽の光三、 祖国をしのんで 集える夜は
老も若きも 手をとりて
さあさ踊ろよ 足並揃ろえ
ラパチョ吹雪の 春の宵 四、牛車に揺られて アペレア過ぎて
ここはカルメン ルソの町
灯ちらほら さ霧に濡れて
夢を見るよな 十字星 五、露と仮寝の カンポを過ぎて
逢ったあの娘の 片えくぼ
何処へ行くのか 花束かかえ
赤いポジェラが 目にしみる 六、旅のたそがれ 十字の岡に
鐘が鳴ります 虹の丘
煙るエンカル 道白々と
遠いピラポが 気にかかる
■■参考文献■■
■■取材および撮影等協力■■
▲▼▲▼この頁の文責・構成・写真・グラフィック等の著作は、阿部祐子に属します。▲▼▲▼