|
|
|
部門
|
名前
|
タイトル
|
| 小学1年生 | 児成 卓哉 | おばあちゃん |
| 小学2年生 | 野中 康児 | しゃぼん玉 |
| 小学3年生 | 関 たけひろ | お父さんのしごと |
| 小学4年生 | ラミレス アリエル | お父さんのこと |
| 小学5年生 | 藤井 大介 | ぼくはチビ |
| 小学6年生 | 家久 佳奈恵 | 「チャレンジしてみよう」 |
| 中学1年生 | 星野 ゆみ | お兄ちゃんは歩けない |
| 中学2年生 | 熊谷 明菜 | 心に残った言葉 |
| 中学3年生 | 佐藤 留美 | 生きている喜び |
ぼくのおばあちゃんのなまえは、こなりじゅんこです。71さいです。
げんきにみせばんをしています。おばあちゃんは、きいろ、みどり、あかなどいろいろなぬのをうっています。
おばあちゃんは、びょうきでいまは、あるけません。くるまいすにのっています。
おばあちゃんは、いつもぼくをよびます。
「たくや、ちょっとおいで。」と、いいます。
ぼくは、おばあちゃんのよぶこえがするとはしっていきます。
「たくや、とをしめてちょうだい。」
ぼくが、とをしめると、すぐおばあちゃんは、「たくや、ありがとう。」と、いいました。
おばあちゃんの、かおは、さむそうなかおでした。
おばあちゃんは、しごとがおわって、おふろにはいって、いつもごはんをたべます。
おばあちゃんは、カラオケがだいすきです。
このあいだ、ぼくに、おばあちゃんが、
「たくやは、おたからさん。」
と、いいました。
ぼくは、つぎのひ、せんせいにおはなししました。「せんせい、ぼくのおばあちゃん、ぼくに、おたからさんていうのよ。」
せんせいは、「ほんとうよ、たくやんは、おたからさんだよ。」
と、おしえてくれました。でもね
「おばあちゃんも、おたからさんだよ。」
と、はなしてくれました。
ぼくは、がっこうからかえって、すぐに
「おばあちゃんも、おたからさん。」
と、おはなしをしました。おばあちゃんは、
「ありがとうたくや。」
と、いってうれしそうなかおをしました。
ぼくは、おばあちゃんがはやくあるけるようになってほしいです。
ラ・パス日本語学校 野中 康児
きょう、日本語学校の教室の中で先生が、
「みんなで外にいってしゃぼん玉をしようね。しゃぼん玉の歌をしっている人。」
と、先生が、みんなに聞きました。
ようちえんで聞いたことがあったけど、おぼえていませんでした。
はじめに、先生が歌いました。そして、
「みんなで三回歌おうね。」
と、先生が言いました。
ぼくは、大きなこえで歌いました。先生が、
「みんなとってもじょうずだね。」
と言ってくれました。
そして、
「じゅぎょう中だから、しずかにしてみんな外に行きましょう。」
と、言ってみんなでしずかに出ていきました。
先生が、ヨーグルトのコップをくれました。
そして、せっけんすいをコップに入れてくれました。
先生が、
「しゃぼん玉ようのせっけんは、家で作ってきたんだよ。
ストローは、一本ずつしかないのでおらないようにしてね。」
と言ってみんなにくれました。
先生が、
「わになって一、二、ので三でとばして。」
と言いました。
ぼくは、大きなしゃぼん玉を作ろうとしてふきましたが、なかなかうまくできませんでした。
ひでとくんが、
「さやちゃんのが、一番大きくできた。」と言いました。
みんなのしゃぼん玉は、ふんわりととおくまでとびました。
しゃぼん玉は、赤や青に光りました。
そして、 ぱっときえました。
ぼくは、うれしくて何回もふいてあそびました。
みんなで、しゃぼん玉ができてとってもたのしかったです。
また、やりたいなあと思いました。
イグアス日本語学校 関 たけひろ
ぼくのお父さんは、はたけにキノコをうえています。毎朝早くおきてはたけに行きます。お父さんのしごとはたいへんです。
ぼくはこの間、キノコをうえているはたけへ行って見ました。はたけはすごく広かったので、ついた時はビックリして
「ケッグランデ」
と言いました。ちょうどキノコのきんをうえるあなをほっている時で、お父さんとにんぷさんはいっしょうけんめいあなほりをしていました。
ぼくは、たおれた木の上にすわって、ほんとうに(マツタケが出てくるのかなぁ)と思いました。でも、マツタケではなくヒメマツタケでした。
キノコをうえる時、始めにこううんきではたけをやわらかくして、キノコをうえるあなをほります。十七センチくらいのふかさです。
キノコのきんを五はこずつならべてうえます。土を十五センチくらいかけて、その上に草をかけます。三十日から四十日ぐらいすると、キノコがでてきます。さいしょは土の中に小さいキノコがでてきます。だんだん大きくなると土がわれてうす茶色をしたキノコが出てきます。大きなキノコは、かさがひらいてしまうからとって、まだ小ゆびぐらいの小さなキノコはのこします。
お父さんはにんぷさんと、とったキノコを一つずつきれいにあらって、ねがついた所と土の色がしみた所を、ていねいにナイフでけずりとります。
そのあと、きれいにしたキノコをラバンディナであらってから、キノコ会社へ車でもっていきます。
ヒメマツタケは会社であつめられて、くさっているかどうかしらべてから、はこにつめられ、日本へはこばれれていきます。
日本では、くすりにしたり、お茶にしてのんだりしてつかわれます。ヒメマツタケは日本で高く売っています。
ぼくはこのことを、お父さんから教えてもらった時、すごいなぁと思いました。お父さんは雨がふらないとキノコをとりに行きます。雨がふっているときは行きません。雨がふりすぎるとキノコはくさってしまいます。その時、お父さんは「こまったなぁー」という顔をしています。
お父さんのしごとは、すごく大へんだけどぼくが大きくなったらしごとをてつだってあげたいです。
イグアス日本語学校 ラミレス アリエル
ぼくのお父さんはアンテルコではたらいています。朝八時まえに家を出て、昼ご飯に帰って来ます。午後は仕事をしません。アンテルコが休みだからです。
でも、ときどき仕事に出ます。
「アリエル、電話せんが切れたから、ちょっと行って見て来るよ。お母さんに言っておいて。」
と、カミオネタにはしごをつんで行きます。
またよそのおじさんが家に来て、「ゆうべの強い風ででんちゅうがたおれて、電話がぜんぜんだめです。早く直してください。」
と、こまった顔して話します。お父さんは昼ご飯も食べないで人夫さんをつれてすぐ行きます。
おとうさんは週に何回もエステのアンテルコに出かけます。それはイグアスの電話のお金やこしょうがないか上の人に話すためです。お父さんは電話きょくで一ばん大切な仕事をしているんだよとお母さんが教えてくれました。
何もないときはお母さんのお店を手伝います。お客さんに、
「これですか。はい、わかりました。さぁ、どうぞ。」
と言って、品物をわたしながら、日本人のように頭をぴょこんと下げるのです。お客さんがちょうめんにつけるときはこまった顔になります。
そんなお父さんがエステの大学で教えているそうです。毎週火よう日の午後になるとエステに行きます。そして、いつも夜中の十二時ごろ帰って来ます。
ぼくたちきょうだい四人は、日本語学校にも行っています。お父さんはぼくたちにいつも
「日本語もしっかり勉強しているか。」
と、言いながら月しゃぶくろを大事そうにしてくれます。
この間から、日本語学校で「せいじんがっきゅう」という大人に教えるクラスが始まりました。お父さんは、
「パパも君たちに負けないように日本語を勉強するよ。日本の進んだぎじゅつや文化を知りたいな。」
と言ってせいじんがっきゅうに入りました。
ぼくは何でもがんばるお父さんが好きです。お父さんのような人になるため、ぼくはこれからもスペイン語も日本語もがんばり、大人になったら、日本へ行ってみたいです。
ラ・パス日本語学校 藤井 大介
ある日、ぼくは、箱の中に入れられて道の横にすてられました。
すごく悲しくてキュンキュン鳴きました。さびしくて、こわくて鳴きました。
一週間ぐらいずっと何も食べないで、箱の中で悲しい気持ちでねていました。
道を通る人たちは、みんな知らん顔でした。
そんなある日、道の近くの三げんの家の庭へ入って行くことにしました。
おなかがすいてたまらなかったのです。
一番初めの家には、三、四ひきぐらいの犬がいたので(これはだめだ)と思い、ニ番目の家へこっそり行きました。
少しこわかったのでそう庫のある方へおそるおそる進んで行きました。
すると、わんぱくぼうずな顔をした男の子が一人で遊んでいました。
ぼくは(何もされないだろうか)とおそるおそる男の子をじっと見ていると、その男の子は、ぼくを見つけてくれました。
ぼくの名前を知らないその男の子は、しゃがんでぼくを一生けん命呼んでくれました。
ちょっとこわかったけど、ぼくは、うれしくなってちぎれるぐらいしっぽをふりました。そして男の子の後について行きました。
すると、その家には、二人の女の子とお母さんがいました。
「ハハハ。かわいいじゃん。」
とか言いながらみんなはぼくに近づいてきました。
男の子は、家の中に入り、パンとごはんを持ってきてくれました。
ぼくは、一週間ぐらいずっと食べていなかったのでガブガブ食べました。
すごくおいしかった。
本当に生きかえったような気分がしました。
この家の人は、ぼくを飼ってくれることにしたようです。
名前は「チビ」とつけられました。
どうやらぼくは、小さくてチビなので、そうつけたようです。ぼくは、この名前を気に入ってます。
ぼくの体は、病気で毛がはげていたのできっと人間から見たらきたない犬だったと思います。
でも日がたつと、だんだんきれいな毛が生えてきました。
それから何か月かたちました。
この家には、ぼくより何ばいも大きいメスの犬がいます。
名前はメリです。時々やさしかったり、いじわるかったりしますがぼくは、仲良くするようにしています。
たいくつな時は、昼ねをしたり男の子とボールで遊んだりしています。
でも男の子は、毎日学校へ行っているので、ちょっとさびしいです。男の子が学校から帰って来るとしっぽをふってむかえてあげます。
すると男の子は、
「お、チビ元気か。」
と言ってなでてくれます。
ぼくは、時々いたずらして、
「チビ!」
とおこられるけど、この家の人達が大好きです。
だからメリーと、家を守っています。
ぼくの体は、小さいけどこの家のやくに立つようにがんばっています。
だってぼくをひろってくれたんだもの。
ぼくの、命のおんじんのこの家は、ラパス日本語学校から近いです。
男の子の名前は、大介君、五年生です。
アマンバイ日本語学校 家久 佳奈恵
「六年生にいってみない?」
そう言われたのは、去年の終業式が近づいていた時でした。
「両親の都合のいい日はいつですか?」
担任の建木先生の言葉を聞いて、私の胸はドキドキしていました。
「六年生になる…うわあー大変だあー。」
うれしくなるのと同時に、
「まさか、私がなれるわけないよ。」
と、自分の気持ちと反対の思いも横ぎりました。
その時、まだ四年生だった私には、六年生へ飛び進級するには、自信がありませんでした。それは、教科書約三冊分もの差があったからです。
どんなに頑張っても、追いつくわけがないと、弱気になっていた私に母が、
「佳奈恵、何事もチャレンジよ、やれるところまでやってみたら。」
と、言いました。
その言葉のおかげで、私は、
「よし、チャレンジしてみよう。」
と、決心したのでした。
そして夏休みの一ヶ月間は、三年の教科書の復習と、まだ習っていなかった四年の教科書の読みの練習をしました。
そして、今年からは六年生で頑張ることになりましたが、新しく手渡された教科書には、思っていた以上に分からない漢字と意味がたくさんありました。みんなに追いつくのには、すごく努力をしなければならないと思い知らされました。
とくに、最初の一ヶ月は、新しいクラスに慣れるのと、授業に追いつくのに大変でした。あっという間に一ヶ月が、嵐のように、過ぎてしまいました。
二ヶ月目ごろからは、少しずつ気持ちにもよゆうがでてきて、なんとか皆と同じことができるようになりました。
一番心配だったのは、新しいクラスの仲間が、私のことをじゃまに思っているかもしれないということでした。しかし、このクラスの皆は、とてもやさしくて、いつも
「佳奈恵、頑張って。」
と、応えんしてくれました。
私たちは、まるで一年生の時からずっといっしょだったかのように男子も女子も笑ったり、口げんかしたりしてとても楽しい仲間になりました。
私には今、追いこしたいライバルがいます。その人に少しでも追いつきたくて、今は、勉強やテストに夢中です。
そんな私に、父はいつも、
「チャレンジすることは、努力することと同じだ、一生けんめい頑張れば、それなりの結果がでるものだ。」
と、言ってくれます。私は、その言葉を信じて、最後まで頑張りたいと思っています。
担任の秋山先生も、
「やればできる。」
と、毎日口ぐせのように言ってくれます。先生のその言葉が、私にやる気を持たせて、もっと頑張りたい気持ちにさせてくれます。
新しいクラスと新しい仲間、新しいことだらけで始まった六年生の生活、残る半年は、学芸会に運動会にと、思いっきり頑張って楽しい一年にしたいです。
六年生になれて一番よかったことは、最高にステキな仲間たちに出会えたことです。
私のことをクラスの一人として受け入れてくれたステキな仲間たちのことが大好きです。
これも、先生や両親、そしてクラスの仲間たちの応えんのおかげだと思います。
この仲間たちと楽しい思い出を作って、いっしょに卒業を迎えたいと思っています。
ラ・コルメナ日本語学校 星野 ゆみ
私の家族は七人です。でも今は、兄弟三人と祖父、祖母と五人で生活しています。両親は、私達の生活のために日本へ働きに行って、一生懸命、頑張って仕事をしています。
私には、とっても大切な、お兄ちゃんがいます。兄の名前は、えいじと言います。今十五才ですが生まれた時から脳に障害があって歩くことが出来ません。それで毎日ベットの上と車椅子の生活です。学校に一度も行ったことがないのに、兄は大変頭がいいので、不思議に思うことがあります。
両親がいない生活は淋しいですが、たまに日本から電話がかかってきて母の声を聞くと嬉しくなります。母からの電話はいつも、
「えいじは、元気なの?今どうしているの。」
と聞きます。私はなぜお兄ちゃんのことばかり聞いて、私や妹のことは聞かないのかしら、と悲しくなる時もあります。でも、よく考えてみると、お兄ちゃんは、歩きたくてもどこへも自由に行けない。私は学校や友達の家だってどこへでも歩いて行ける。やっぱり歩けないお兄ちゃんのことを私より心配するのは当たりまえだ、と思うようになりました。
一人で歩ける人は自分で何でもやることが出来ます。でも歩けない人は、人に頼んでやってもらうしかありません。つらい思いをしているに違いありません。
お兄ちゃんは、一人で風呂に入ることが、出来ません。だからいつも祖父と私がきれいに体を洗ってやります。日本語学校から帰って来ると、たまに
「ゆみ、えいじを風呂に入れてやろう。」
と祖父に言われます。私は疲れているので
「いやだよ。」
と言うと祖父はいやな顔をしてしかります。そんな様子を見ていたお兄ちゃんは、
「いいよ、明日でいいよ。」
と遠慮します。私は、あわてて、
「ジャ、入れてやるよ。」
と言って、四十キロぐらいの重たいお兄ちゃんを祖父と二人で
「ヨイショ、ヨイショ。」
と風呂場へ連れて行きます。体をごしごし洗ってやると、とても気持ちよさそうな表情をします。洗い終るとお兄ちゃんは、必ず
「ありがとう。」
と言います。私は、疲れていてもやってあげないといけないなあと思いました。
お兄ちゃんは、いつもテレビを見たり、おもちゃの車で遊んだり、読書もします。でも一番好きなのは、ゲーム遊びです。いつも日本にいる両親に、
「なになにのカセットを送ってちょうだい。」
と言います。兄の言葉は聞きずらいけど母には、ちゃんと理解できるのです。
私は、となりの明君や友達が、うちにきてお兄ちゃんと一緒にゲームをして遊んでくれるのが嬉しいです。お兄ちゃんは、友達が来ると喜んで口から言葉を出そうと一生懸命努力します。
「ジャーゲームで遊ぼう。」
と、言っていつも手に持っているゲーム機を差し出します。ゲームは友達には負けません。
ある日、友達がいる時に、大便をしたくなりました。がまんできずに、服を汚したことがありました。でも祖母は、何も言わずきれいにしてあげました。お兄ちゃんは謝りました。そうすると祖母は、
「いいんだよ、出るのはあたりまえだよ。」
と言ってお兄ちゃんが恥ずかしがらないように気を使って言ってあげました。祖母は人の心を傷つけない、立派な人だと思います。
お兄ちゃんは、あまりしゃべることが出来ないけれど祖母と私はお兄ちゃんの気持ちはよく理解出来ます。兄の一番いいところは、けちんぼうじゃなく、ほがらかでひねくれていないところがすばらしいと思います。
私はお兄ちゃんのことを思うと、うちの中がいつも、明るく、ほがらかな家庭でありたいと思います。
今、お兄ちゃんの一番の楽しみは、両親が日本から帰る時コンピュータを買ってきてくれる約束があることです。そして、コンピュータを習うことがお兄ちゃんの夢なのです。不自由な体でも一生懸命勉強したいお兄ちゃんの意志を大切にしてぜったいその夢をかなえてあげたいと思います。
私の両親が元気の間は、私は何も心配はありませんがいずれ父母も年老いてゆきます。
兄の世話が出来なくなった時は、私の責任になることでしょう。私の将来の仕事は、お兄ちゃんみたいな体の不自由な人のために、毎日を明るく楽しく生きがいのある生活ができるようにしてあげることだと思っています。
私は勉強を大切にして福祉関係の大学で学びお兄ちゃんも一緒にたくさんの人の世話をしてあげたいと心から願っています。
ラ・パス日本語学校 熊谷 明菜
皆さんは、心に残った言葉、好きな言葉はありますか。
言葉とはすごいものです。たった一言で私たちの心に大きく残り、またはほんの一瞬で私たちの心を大きく揺れ動かす事が出来るのです。
あれは、私が中学校に入ったばかりの時でした。勉強が難しくてついていけず、成績も上がらず、下がっていく一方でした。特に「社会」といった暗記しなければならない科目は大の苦手で成績も悪かったです。
その事ですごく落ちこんでいた私に、母がこう言ってくれたのです。
「誰にだって苦手なものはあるし、失敗する事もある。でもね、それを乗りこえてこそ、新しい自分。また、一回りも二回りも成長した自分が得られるんだから。ママもアンタぐらいの頃は勉強が嫌いだったけど、『自分の為に勉強はするんだ』って言い聞かせてがんばってきたんよ。明菜はママとパパの子供なんだから、がんばって努力すればきっと出来る。がんばれ明菜!」
この一言で私の曇っていた心が「パーッ」と晴れ上がったような気がしました。いつもは、怒ってばかりの母がこの時ばかりは、
「がんばれ。」
とはげましてくれたので、すごくうれしかったです。
またこんな事もありました。中一が終わるころ、担任の丸山先生が、私あてのカードをくれた事です。そのカードには、こう書かれてありました。
「やればなんだって出来る。来年もその次も、またその次の年も。ずっとずっと明菜ちゃんらしく前向きにがんばってね。明菜ちゃんのような人、いつも前向きに生きる人には必ず素晴らしい未来が待っているよ。じゃあね、一年間ありがとう。」
私はこれを読む前、てっきり授業中うるさかった事や先生に口答えした事を注意されるカードだとばっかり思っていました。でも、先生は、その事にはまったく触れず、こんなに素敵なメッセージを書いてくれたカードをくれたのです。私はすごく感激しました。
なぜなら先生は、「明菜ちゃんは授業中うるさすぎます」と書く事だって出来たはずです。でもその事には触れず、「いつも前向きにがんばれ」と書いてくれたので、私はもっと授業中は静かにしよう、そして先生がカードに書いてくれた一つ一つの言葉を元に、がんばって勉強しようと考える事が出来ました。
だから、私の心に残った言葉はこれなんだと思います。母と丸山先生が言っていた「がんばれ」です。まだほかにも、「勇気」「努力」「希望」「根性」「やる気」とたくさんあります。が、「がんばる」が一番心に残りました。
私は、そんな数々の言葉を元に、ラパス中、パラグアイ中、いや世界中の人達にこう伝えたいです。
「みんながんばれば何だって出来る。失敗したっていい。失敗は自分の弱点を教えてくれる友達。そうおそれないで欲しい。勉強だって、恋だって、スポーツだって何度でもチャレンジしてがんばればきっと成功する。そしてそこには必ず素晴らしい未来が待っている。」
と伝えられたら、ステキな事が起きるのだと私は思っています。
この言葉をみんなに伝える事で、少しでも多くの悩みを持った人、何をするにも自信がない人たちの力となってあげられたらどんなにいい事でしょう。
あの日、私をはげまし勇気付けてくれた母の言葉や丸山先生がくれたあたかかくて、うれしかった言葉。その言葉の一つ一つのおかげで私は今、ちゃんと勉強も出来るし、大きな夢のまたその夢。あるいは、私からみんなへの願いを見つけられたような気がします。
私は、これから母や丸山先生のような、相手の人の気持ちを明るくするような言葉が使えるように日々努力していきます。
私の心に残った二人の言葉が、今私を少しずつ変えようとしています。
アマンバイ日本語学校 佐藤 留美
「次の検査は、二ヵ月後です。」と医者に言われた時は
「えー、二ヵ月も来なくていいの。」
と聞き直しました。
「そうです。二ヵ月後でいいのですよ。」
と先生が笑って答えてくれました。
「わー。そんなに長いことずっと家にいられるなんて最高。だけど、また、途中で具合が悪くなったりしないかな。」
と、ちょっとした不安をいだきました。なぜなら私は、この三年間の間、ガンの病気を告知されてから検査、治療、入院のくりかえしばっかりでまともに学校に通うどころか、家にさえいる時間がなかったからです。
私の病名は、組織球腫と悪性リンパ腫のホジキン病です。この病気の治療は、ふつう九ヵ月ぐらいで終わるのですが、私の場合は、良くなって再発をくりかえしたのでいくら治療しても私は、もう良くならないんだ、死んでしまうのかもしれない。どうしよう、こわい、こわい、と泣き叫んだ日が何回かありました。どうせ死ぬんだったらもうこんなにつらい治療なんかうけない、病院にもいかない、と両親をこまらせたりもしました。どうして私だけこんな病気になって苦しまないといけないの、と不公平に思ったことも何回もありました。
小児科の医者から
「これ以上再発してきつい治療をうけると体が弱ってしまうので骨髄移植をしましょう。」
と言われました。骨髄移植さえすれば私は元気になるのだ、と思って早くしたくてたまりませんでした。だけどそのためには、二ヵ月以上もいろいろな検査が必要なのです。そのためには、ずっとサンパウロにいないといけない…母とだけの生活…さびしい…父や祖母、友達に会いたい…自分のベットでねたい…学校に行きたい…といろいろな願いでいっぱいでした。去年の七月三十一日、骨髄移植をするために入院しました。少しこわかったです。移植する前に、一週間の間しゅうちゅう治療室で最も強い治療をうけ、体力が0にちかいほど弱ったころに元気な骨髄を私の体に移植するのです。その間私の体は、ずたずたにさかれた感じで息も身動きもできないぐらいつらい日がつづきました。
だけど日に日によくなり、
「移植が成功したよ。」
と、言われた時は、
「成功したんだ。もう良くなったんだ。」
と何回もつぶやいてうれし泣きをしました。病室から一歩も出ることがゆるされないので父や友達からかかってくる電話が一番の楽しみでした。まちにまった退院の日です。やっと外に出られるのかと思ってうれしくて、うれしくて、母にこれやあれも食べたいと注文し、入院中にできなかったことをぜんぶしたかったのですが、体がふらついていうことを聞いてくれないので腹がたちました。
退院したと思うと次の日にまた病院へもどらないといけなくなりました。バクテリアにやられてねつがでたからです。二十日ぐらい入院してまた退院したかと思うと今度は、肺炎にかかりかけて、また病院へ通わなければいけない日が続きました。
「いつになったら元気になれるの。」
と不安といらいらする気持でいっぱいでした。三ヵ月後にやっと医者のきょかがおり、ペドロファンの家に帰れる日がやってきました。何年ぶりに帰れるようなおおげさなうれしい気持でいっぱいでした。ひさしぶりの家は、楽しく、もう二度とサンパウロに行きたくありません。だけど、治療中に心臓をいため、そのために何回かまた病院に通いました。食よくはなく、体はきつく、めまいばっかりの毎日に私は、本当に良くなったのだろうかと不安でいっぱいでした。あまりに体の調子が悪いので医者がバイオプシーをして、また再発していないかみてくれました。けっかは、よかったのでほっとしました。体が元にもどるのに時間がかかったけれど今、やっと私はよくなったんだという実感がわいてきました。やっとふつうの生活ができます。めまいのしない毎日、ごはんがおいしい、毎日学校へ行ける、一人でおふろに入れる、ぜんぶふつうなことなんだけれどすごくありがたい。まだまだしたい事は、いっぱいある。だけど時間がないので一つ一つかみしめながら実行していこうと思っています。
病気のせいでなくしたものはいっぱいある。だけどえられた物の方が多いと思う。それは、生きるという事がどれほど大切で素晴らしいという事と何事も負けずに進むこと、みんなの愛と励ましがどれほど大切かと言う事です。人生の中でつらいことがあったらこの戦いの勝利を思い出しがんばっていこうと思います。