第14回日本語スピーチコンテスト
各部門1位の入賞作品

2002年9月7日に人造りセンター(於アスンシオン)にて行われました、第14回日本語スピーチコンテストの各部門の1位入賞作品です。タイトルをクリックすると、スピーチへジャンプします。
なお、小学校低学年の部につきましては、暗唱コンテストのため、割愛させていただきました。
写真
アスンシオン日本語学校 小学六年 大前 由美子 (十一才)
私達のアルバムをひらいてみましょう。
そこには、私達が小さいときの写真がありますね。私達が覚えていなくても、ちゃんと思い出を残しておいて、私達の記憶をよみがえらせます。
みなさんのアルバムの中にはどんな写真がありますか?どんな気持ちや思い出がその中につまっていますか?
私の一番の思い出の写真は、日本へ行ったときの写真です。その写真は、お兄ちゃんと雪だるまをつくったときの写真です。パラグアイでは、雪がふらないので、それが一番の思い出です。それと、お父さんやお兄ちゃんといっしょにディズニーランドでとった写真もあります。私は小さかったので、あまりよく覚えていません。でも、その写真を見た時、どこへ行って、何をしたのかがわかりました。それをみるともう一度、日本へ行きたくなります。
私の家には、アルバムがたくさんあります。その中には、私のお母さんの写真や、ひいおじいちゃんや、ひいおばあちゃんの写真があります。
ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんは、私が、生まれる前に死んだので、写真でしかしりません。
お母さんが若かったころの写真や、結婚したときの写真もあります。
写真は私がしらなかったことを、たくさん教えてくれます。時間がたつのといっしょに、私達も、大きくなっていきます。でも、写真は、大きくならず、いつまでもそのときのままで、思い出を、ずっとしまっておいてくれます。
なつかしい人の写真を見ると、急に会いたくなることがあります。また、なつかしい場所の写真を見ると、その場所にもう一度行ってみたくもなります。
きれいな花やどこかすばらしい景色の写真を見ると、まるで自分がその場所にいるような気持ちになります。
友達の写真をみると今何をしているのかなあと思うときがあります。写真は、テレビのように場面がうごかないので、その後、どうなったのか知ることができません。とったそのしゅんかんのことしかわかりません。
でも、私達の思い出をそのまま残してくれます。ただの紙なのに、写真は私達の気持ちや、楽しさをそのままうつしていて、本当に不思議です。
私が小さかったときの写真を見るたびに、
「小さいときにもどりたい。」
と、思うときがあります。でも、もどりたくても、時間は、もどってくれません。それだからこそ、私達は、一日一日を大切に生きなければいけないのだなあと思いました。
小さな、なんでもない事でも、それがいつか思い出にかわるとき、すばらしいできごとになります。
写真をとるたびに、私達のアルバムの中には、また、新しい思い出が、集まって、いつまでも、かがやきつづけます。
「さあ、もう一度、アルバムをひらいてみましょう。」
私達の思い出がいっぱいつまっています。

中学生の部 第1位
あの子供達を見て…
チャベス日本語学校 中学一年 黒澤 由美 (十三才)
「お金をちょうだい。」
「ダメ・ウナ・モネディタ。」
とエンカルナシォンの町を歩いていると よくこう言われます。それを言うのはみんな小さな子供達です。よごれていて、やせていてはだしで 通る人にいつもお金をねだっています。こういう光景を私は去年 チャベスからエンカルナシォンの町に住みに行った時 初めて目にしました。チャベスでは このような子供達は見当たらなかったので おどろきました。
この子供達の親はまだ何も知らないこんな小さな子供達に、なぜこんな事をさせるのでしょうか。
彼等はお金をもらってもすぐにちがう子が来てけんかをしてでも そのお金をうばい合います。時には そのけんかがもとでけがをする事もあります。ケガをしても その痛みに耐え、その場ですぐ立ち上がり、もらった自分のお金をとりもどそうと 立向かって行きます。
もし、私がこの子供達の立場だったらどうでしょう。きっとがまんできなくて その場で泣き崩れて おちこんでしまっていたでしょう。
また、お金が貰えなかったら意地になり持っている物を無理やりもって行こうとする子供達は減るどころか 反対に増え続けています。例えば金のネックレスなどをつけていると、首に手を伸ばし引きちぎって行きます。他にも 車の窓ガラスを割って 中の物をもっていく場合もあります。
私はそれを 一度目にした事があります。車の窓から手をつっこみ 中の物を探っている所でした。私にはそれを ただ見ている事しかできませんでした。すぐとなりにいた友達が
「今盗った物をよこしなさい。」
と言って盗った物をもらい それを持ち主に返す事ができました。
どうして私には何もできなかったのでしょう。もし その時その友達が一緒じゃなければ きっとその子供達は盗った物をもってにげていたでしょう。そう考えると私は(自分はなんて小さな人間なんだろう。こんなんじゃ一人では何もできないだろうな。)と思ってしまいました。盗みをする事は早めにやめさせなければ この子供達はいつか、もっと大きな事件をおこしてしまうでしょう。例えば空き巣、強盗、人殺しなどです。そうしたら今度は警察と戦う事になるでしょう。その時もしかしたら殺されてしまうかもしれません。もしくは 長い間刑務所にいれられてしまうかもしれません。
それに比べてレモンや新聞などを売ったり、くつみがきをしたりしている子供達はどうでしょう。
車に乗っている時
「レモン買って。」
と言って両手にレモンの入ったふくろをぶらさげて走って来ます。道を歩いている人にもそう言って近寄って行きます。それを見ると私は
「がんばるな〜。」
と感心してしまいます。今の私にはとてもじゃないけど 自分で働いてお金をもらうまねはできません。
だけど あの子供達が私達と同じように学校に行けて少しでも教育がうけられたらいいな と思います。
私はあの子供達の親にうったえたい…
「まだ何も分からない子供に麻薬や犯罪などの道に走らせないでほしい。一人前になるまできちんと見守ってあげてほしい。」と。

青年の部 第1位
私の住みたい移住地
イグアス日本語学校 永野 三枝子 (十七才)
パラグアイの日系人には、農業の先駆者というイメージがあります。実際に、果樹、野菜そして大豆は、私達の祖父母が安定した生活を求めるため、すべて自分達で技術を開発し、パラグアイ全土にひろめていったものです。私の住むイグアス移住地は特に大豆の不耕起栽培発祥の地として、有名になりました。
私はその事を、日系人としてとても誇りに思います。
ところで、今私の住むイグアスでは、ひめまつたけと言うキノコ栽培が行われ、特に大きな農地を持たない小農家の家で広まっています。
私の家でも、今年に入って、少しでも生活の足しに出来るならと言う思いでキノコ栽培を始めました。これまで私の家では、ずうっと牧場を経営し、片わらに野菜作りで生活を支えてきました。でも何年にもわたる野菜の値段の低迷と、値上りする人件費、農薬代などで以前の様な利益を得ることが出来なくなったのです。
そんな時に両親の所に持ち込まれたのが、キノコ栽培の話しだったのです。
始めたキッカケは人によって様々だと思いますが、キノコ栽培のもっともいい所は、狭い面積で出来る事、キノコの菌をすべて会社が負担してくれるため、最初の資金が少なくて済む事、そしてドルで買取をしてもらえる事です。特別高いとも言えないのかもしれませんが、ガラニーの価値がドンドン下がっている今、ドル払いは心強いのではないでしょうか。
今イグアスでは二十四世帯が、このキノコに取り組んでいます。その多くは今まで野菜作りをして来た人の他に、パラグアイ人や勤め人など多種多様な人達です。
もちろんキノコ栽培だけで生活する事は、今の所難しく、ほとんどの人は別の仕事と掛け持ちでやっています。
さて、イグアス移住地は確かに大豆で有名です。しかし世帯数を見てみると、大豆で生活していると思われるのは、日系人百八十世帯の内六十世帯だけです。その他の人は、つまり三分のニは、勤めに出たり、商売したり、キノコを栽培したり、それから日本への出稼ぎに出て生活を支えています。日系人の場合は出稼ぎと言う手段がありますが、移住地の人口の九十パーセント以上をしめるパラグアイ人やブラジル人の場合は、簡単に日本へ働きにと言う訳にはいきません。しかしやはり人々はこれまでの生活を維持するため、またもう少し良い暮らしを望んで、いい働き口を求めます。でも状況は厳しいのです。パラグアイ全土が不景気のため、仕事はドンドン減って来ているからです。
これまでパラグアイの主な輸出作物だった棉でさえ、対策の無いままで、今はほとんど植えられていない状況ですから。
私はこの移住地で生まれ育ち、日本語学校で、移住地の歴史、苦労、移住者の頑張りを教わって来ました。また、祖父母の生活振りを見たり聞いたりしてその頃の頑張りがあったからこそ今私達がここで生きていかれると思います。パラグアイ人もブラジル人も日系人も仲良く暮らしている移住地の中で育った自分は、将来もこの土地で暮らしたいと考えています。
しかし今のままでは、移住地の一部の人だけが安定した生活をしている様な気がします。移住地全体が豊かになれないでしょうか。パラグアイ人も含めた移住地の人みんなが…
みんなが安定した暮らしが出来るための方法としてこんな事が考えられないでしょうか。
まず、これまでの大豆や野菜の様に、移住者が工夫して産業を作り出して行く、キノコ栽培はその一つのキッカケで、他にも何とか低資本で出来る産業が興ってほしい…
パラグアイは、農業で生きている国です。農業を基本とした様々な産業をもっと起こせないでしょうか。
大豆や野菜等の生産物を加工し、雇用を生み出すまでに高められた産業を、もっと起こせないでしょうか。そしてそのための技術者を、もっともっと育てられないでしょうか。例えば、小麦を使っての製粉技術者、野菜を利用しての加工技術者など色々な技術者が必要です。パラグアイには、この技術者が大変不足していると思います。
私は、人材育成の為の具体的で充実した研修、留学制度が必要だと思います。
今私は、自分の住む移住地が、日系人も、パラグアイ人も安心して働き、生活の安定を保てる場所であってほしい、そのための仕事があり、産業があればと心から願うのです。そうして、そんな移住地が私の住みたい移住地なのです。

非日系人の部
日本ごにであって
ラパス日本語学校 小学一年 馬屋原 カタリナ(三十才)
はじめまして わたしは、まやはらカタリナといいます。
わたしが、ちいさいころ きんじょに 日本人がすんでいました。
パラグァイ人のわたしは、そのころ おばさんのはなしをきいて、
「あのおばさん、なんといっているのかな。しりたいな。」
と、日本ごにかんしんをもちはじめたのが、このころでした。
せいじんしてからも 日本ごをおぼえたいなとおもっているとき、日けい人である しゅ人としりあってけっこんしました。
けっこんすると、そこには、しゅじんのりょうしんがいました。
二人ともスペインごがはなせません。わたしは、日本ごがわからないのでこまりました。
おかあさんやおとうさんと、はなせるようになりたいなあとおもいました。
おかあさんに、どうしてもつたえたいときや、ならいたいことがあるときは、しゅじんから日本ごをならいながら、かたことの日本ごではなしていました。
でも もっと 日本ごがすらすらはなせるようになりたいのです。
おかあさんに、日本りょうりや、日本人のふうしゅうもしっかりならって、日けいふ人として、はずかしくないようになるためにも、ますます日本ごのべんきょうがしたいとおもうようになりました。
ことし、一ねんせいに入がくした ちょう女のたんにんの先生とはなしているとき、
「おかあさんも、子どもさんといっしょに日本ごのべんきょうをしてみませんか。」
と、こえをかけられました。
わたしは、うれしくて さっそくかぞくのものにそうだんして、日本ごがっこうへ子どもといっしょに かようことになりました。
日本ごがっこうへいっても、はじめは ことばもほとんどわからないし、なにをしていいのかもわからず、おろおろ ドキドキしていました。
せんせいのはなすことばのいみをりかいしたり、うまくはつおんすることがむずかしいです。でも、小さい子どもたちといっしょにいっしょうけんめいかんがえたり、かいたりよんだりしていると、べつのせかいにいるようで たのしいです。
まい日、うちで、子どもと日本ごのしゅくだいをしています。わからないところは、しゅじんにならいながら すこしずつわかるようになってきました。
いまは、ふじんかいのあつまりの中にいても、まわりの人がはなしていることも、すこしはわかるようになってきました。
このあいだ、バレボールのれんしゅうにいったとき、Aさんに、
「カティ。さいきん、ぐうんと日本ごをじょうずにつかって、はなせるようになったね。これからは 日本ごではなしよ。」
と、いわれて いままでいじょうに、日本ごがすきになり、べんきょうすることもたのしくなってきました。
かじ、子そだて、がっこうと三つのは車がかみあうまでは たいへんでしたが、かぞくのきょうりょくがあるからこそ、いま、こうして日本ごの勉強ができるのだと心からかんしゃしています。その上、せんせいには、なにもわからないわたしに、ここまでけんめいにおしえて下さり、とても かんしゃしています。
さいごに、いつも そばでおうえんしてくれている、せんせい、しゅじんや子どもたちにひとこと、
「ありがとうございます。」
と、つたえたいです。
そして これから もっと もっと日本ごをべんきょうして、しゅじんのりょうしんとも いろんなかいわをとおして、日本人の心や、おもいでをつくっていきたいとおもいます。

