合田:お忙しい中ご出席いただきましてありがとうございます。本日は、栄田教育担当理事は残念ながら欠席ですが、石崎シニア、西舘委員長、岡本先生の三名を迎えて、これまでのパラグアイの日本語学校と日本語教育の推移をみながら、今後の方向に関し、皆さんのご意見や考えを伺いたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
まず日本語学校について、ピラポ移住地の日本語学校に長くかかわって来られた西舘委員長から、ピラポでの日本語学校の現在に至るまでの推移についてご紹介願います。

西舘 世公
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西舘:ピラポ移住地はチャベス、フラムに続いて1960年に開設された移住地で、戦後移住地としては新しい方です。ピラポでは移住者収容所そのものが、最初から日本語学校と西語学校が両方出来るような学校校舎に作られていました。入植当初の現地の教育に対する関心は低く、西語学校と言っても、そこに通う生徒のほとんどは日系人でした。
そして入植が進む中で、四年間に合計五つの学校が開校しました。それぞれの学校が日語・西語学校の両方を行い、私が入植したときには既に授業が始まっていました。
日本語学校の先生は、移住する船の中で既に先生の推薦が行われ、ほとんどボランティアに近い形が考えられていたようです。最初に苦労したアカカラジャ地区をテストケースとして、十七キロ地区、二十三キロ地区、十三キロ地区、そしてカーレンズ地区へと進んでいき、一九六五年には、海外移住事業団(注:現在のJICAの前身)によって、レンガ造りの校舎が3校と教員宿舎が5棟建設されました。これも日本語・スペイン語両方ですが、日本語は土曜一日、複式授業を行うところが多かったです。
その後、70年代の初期には、スクールバス制度が導入されました。これが日本語学校統合の第一期で、アカカラジャ、二十三キロ、富美村の3地区に統合されていきます。事業団から提供された2台のスクールバスは、このうちアカカラジャと富美村で使われました。この時、富美村の学校はカーレンズと合併しています。そして、この頃から市街地への転住者が増え、セントロに一校増えました。要するに、5校あったものが3校に統合され、新たに1校が増えて、四校になったわけです。
しかしこのスクールバスは、わずか3年程度で失敗に終わりました。受益者が運営を担ったため、その負担が大きく、料金が高かったこと、サンブラスやフラムで日本語を含めた中学などが出来、寮制度を利用してそちらへ通う生徒が増えたことを受けて、運行中止になりました。フラム中学は非常に評判も良かったので、ピラポでも、70年代の終わり頃には夜間中学から全日制への転換を試み、それで出来たのがセントロの中央日語中学です。そして富美村にも中学が出来ました。これが、第二期統合につながって、アカカラジャとセントロが合併したあとに二十三キロが統合し、富美村と十七村とカーレンズが統合し、中学までを持つ学校2校となりました。これらの校舎のほとんどが、受益者が自分の金で建てたものです。

現在のピラポ日本語学校
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また、その頃から、父兄は知らなかったのですが、JICAから教師へ直接謝金が出ていたようです。そういう助成が入るようになって、それまでは自分たちの子弟だから出来ることはしようという奇特な主婦を中心とした人たちに支えられていた教師が、次第にプロ化して来たわけです。
そして、1999年にその2校が1校に統合したのが、第三期統合です。理由は生徒数の減少です。一学年の生徒が五人を割ると、父兄負担も大きく、教育環境としても良くないということで父兄から統合を希望する声が上がって統合に至りました。そしてここで初めて日本人会立になって現在に至る訳です。
また、幼稚園に関して言うと、それまであった聖霊幼稚園が閉園になった後、保護者達の努力によって仮の形で続けられていましたが、2001年には日本人会立日本語学校付属幼稚園として一本化され、園舎も完成しています。
このようにピラポでは、生徒数の問題や移住者の生活状況の変化を受けて、統合が進んで来たといえます。なお現在は日会運営のスクールバスも運行しています。ラ・パスの場合もほぼ同じと思います。一方、イグアスは最初から1校だけだったと思います。
合田:戦後移住地ピラポにおける日本語学校の生い立ちと変遷について話していただきました。一方、岡本さんはアスンシオンで長く日本語学校に関係して来られましたが、アスンシオンについてお話下さい。

岡本 照子
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岡本:私がアスンシオン日本語学校の校長をしていたのは、一九九〇年から一九九五年のことです。学校そのものは一九六〇年にアスンシオン日本人会の創立したのと同時に、七キロ地点にあった仮会館で始まったと聞いています。私が校長になったときには、今の校舎の場所でしたが、今よりももっと小さな学校でした。
アスンシオンが移住地と違うのは、もともと移住地から転住してきた人が多く、非常に人の出入りが激しいことです。ですから移住地のようなしっかりとした基礎がないので、父母から日本人会にお願いして、日本人会の学校として始まっています。ちなみに私が校長をしていた頃の生徒数は一八〇名ぐらいで非常に盛んで、先生も八名程度いました。
都市と移住地の大きな違いは、移住地の方は日本語能力が非常に高いのに比べ、都市の場合は、日常使う言葉も含めて、西語のほうが強いことです。ですから、作文コンクールやスピーチコンテストなどで、どうしてもその結果は落ちることは否めません。
アスンシオンでも、私が校長をしていたときは国語教育だけでやっていましたが、現在は入学時に日本語がわからない生徒が多くなり、今は日本語教育の指導に変わりつつあります。またこれに伴って、先生そのものに問われるものも変化していて、日本語・西語の両方がわかる教師であることが求められています。このような背景を受け、推進委員会では日本語教育のできる教師の育成を進めているところです。
西舘:アスンシオンに限らず、都市型には都市型での共通点があると思います。
合田:戦後移住から現在までの日本語学校の推移と現状を見て来ましたが、日本語学校は、大きく分けて移住地型と都市型の二つの型があると言えると思います。
移住地型としてはピラポ移住地では、初め地区ごとに小さな日本語学校が作られ、父母が中心となって運営して来ましたが、道路・交通の便が改良されたことにより、また日本語学校に中学部が新設される過程や、生徒が全体的に減少する中で、統合が進んで現在のように一移住地一日本語学校になり、また運営の主体も父母会から日本人会に変化して来ました。なお、舗装国道が走るイグアス移住地では交通の便もあり、最初から日会立一校で始められたと思います。
一方、都市では、父母会立の学校というのはおそらく存在せず、最初から日会立で一校だけで始まって来ました。その後、都市では、生徒の多様な要望に応えるために、個人塾や日本語教室が増えて来ています。
現在パラグアイにおける十の日本語学校のうち、完全な都会型がアスンシオン、エンカルナシオン、エステの三校、移住地型がピラポ、イグアス、ラ・パス、チャベス、ラ・コルメナ、カピタンバードの六校、その折衷型がアマンバイと言えると思います。いずれも地区の日会が日本語学校を運営している事は共通しています。石崎先生、これはブラジルでも同じですか。

石崎 滋
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石崎:地域によりますが、主にサンパウロ圏では、文協、ブラジルの場合は日本人会を文協と呼ぶのですが、その文協が日本語学校を経営しているのは非常に少なくなっており、塾のような形になる時代に入っています。言ってみれば大都会型です。それに対して、私のいたサルバドールやリオでは、まだ現在は日会が運営していますが、サンパウロのような状況になるのはそれ程遠い将来ではないだろうと思います。その理由は、日会の力そのものが弱くなって来ているからです。都会では特に若い世代が入会しないために会員数が減少し、その財政基盤と影響力が弱まりつつあります。しかし日本語学校というものは、授業料だけで運営することは不可能で、日会が何千ドルかの助成をしてやっと運営できるものなのです。
これからの都市の学校では、「日本語能力試験一級に何名合格」等の宣伝をして、生徒を集めるような塾型が多くなると思います。
もう一つ、ブラジルでも都市から離れれば多くの移住地がありますが、今はあまり元気が無いのが現状です。その中には、西舘さんが先ほど話された移住地開設当初の頃と同様に、今でも父兄が交代で無報酬のボランティアとして教師を担当している移住地もあるのです。
また、営農が立ち行かなくなってきた農家がどんどん離れて行き、戸数が減って、移住地自体の力がなくなって来ているところもあります。それでも子供はいるので細々と日本語を教えているのですが、どうにもこうにも悲しくなるような現実もあるのが事実です。ブラジル人児童が日本語学校に入学を希望する場合、運営上のことも考えて受け入れてはいるのですが、教える方は、日本での教育も途中まで、しかも日本語教育についてはわからない教師なので、昔ながらのやりかたでしか教えられない場合もあります。この形はかなり多いですね。そして、年に一度JICAから来る教師謝金だけが楽しみ、というようなね。
西舘:それで、ピラポでもこの教師謝金が、直接教師に渡るようになっていたと思うね。
石崎:日会の力が無い場合は、その中からも取ることもあります。それほど追い詰められている現状もあるのです。どこも先行きは大変です。もちろん、大豆であたって好景気で、出稼ぎゼロという移住地もあります。そういう場合は援助を当てにせず、様々な設備を作ることも出来ているようです。
日本語学校といっても様々で、今はパラグアイもブラジルも、色々な意味で過渡期にあると言えます。日会の力の問題にしろ、日本語教育の問題にしろ、まだまだ先はわからないでしょう。

合田 義雄
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合田:この『日本語学校』という存在そのものについて、二年前に訪パした佐々木倫子先生(桜美林大学)が調べられたハワイの教育界では、戦後も百を超える日本語学校があり、生徒数も2万を超えていたのですが、70年代には70校、8,000人の生徒数となって、2001年には15校1,100人まで減少しています。例外もあるでしょうが、時代の推移と共に、日本語学校は減少する運命にあると話されていました。
また、アルゼンチン教育連合会の資料では、1990年〜2001年の間に、30校あった加盟校が24校に、2,000人の生徒数が1,600人に減っています。この24校のうちの8校は生徒数が数十名前後で、工夫して生徒数を維持する学校と、減少一路の学校とが明確に分かれています。
なお、現在アスンシオンにも、塾型・企業型と言いますか、日本語学校以外の日本語教育機関、例えばハマナスセンター、人造りセンター、または個人塾などが始まってきています。ピラポでも個人塾が出来ていると聞いています。移住出発から100年を経過したブラジルでも、日本語学校の形は千差万別のようですが、委員長から、パラグアイの日系社会としては、日本語学校をどのように評価し、どのような日本語学校を目指しているか話して頂ければと思います。
西舘:日本語学校は日本の文化だと思うんです。
西洋は教会が中心ですが、我々の移住の歴史の中では、常に日本語学校がその中心で、その行事を通して、皆が一つになってきたのです。地域の構造が変化する中で、日本語学校もそれにあわせた形が求められていくと思いますが、日本語学校と言うのは地域社会の中心であり、二世・三世に伝承していく中心です。そのためにもこれからますます充実させていくために地域全体の力でそれを盛り上げていこうという新しい空気が生まれています。
現在は少子化で、父兄の力だけでは運営を持ちこたえることは出来ません。それでも日本語学校を地域として続けていくことが、日系社会として大切だという気持ちを私自身も持っていますし、そう感じられる社会構造であって欲しいと思っています。移住地では、まだあと二十年〜三十年は日本語が使われると思います。そういう意味でも移住地の中では日本語学校なしでは考えにくいのです。
石崎:私もそうあるべきだと思います。ピラポやラ・パス、イグアスなどの移住地では、まだまだそれが可能と思います。
西舘:移住して三十年程度経った頃、七十〜八十年代に、移住地から多くの子供が流出した時代に、学校を統合していくことと同時に、学校がないと地域の日系社会が閉鎖的になってしまう危険性についてもいろいろ検討されました。移住地は日本語学校を中心として人が集まっているのです。
石崎:一方、都市型のアスンシオンで考えると、日本語学校がアスンシオンの日系社会の中心であるかと言えばそこまでの重さは無いのが現状でしょう。それが都市型というもので、もちろんアスンシオンだけではありません。今からでも中心になれるかといえば、それも無理だと思います。
西舘:今日、日パ学院の移転予定地を見学したのですが、日パ学院が移転したら、学校経営、生徒数の問題から、アスンシオン日会の負担は増えるように感じました。
石崎:現実に、金銭面から見た学校運営が問題になるでしょう。移住地における日本語学校は、地域日系社会の心の拠り所であり、そこを中心にして動く形が作られていますが、都市部は集団で移住した訳でもないし、それぞれの仕事も違うので、日系社会というものに対する帰属意識が弱いのです。その場合は学校を中心にするのは困難です。おそらく都市部は移住地に比べて日会員率も低いはずです。
日会が設立母体になって作った学校ですから、学校の面倒を見るのが当然なのですが、日会自体の経営が危なくなって来たら、学校への支援が困難になる事態が発生する可能性があります。
西舘:現在大豆景気の三移住地では力も入れられるけれど、そうでないところは難しいと思いますよ。
石崎:突然に「もう面倒見切れないから独立採算でやるように」という状況がやってくる可能性があります。
西舘:移住地のもう一つの特徴として、日系人が組織する農協があり、ここが金を持っている強みもあります。実際の援助はありませんが、これが大きなバックとなっています。
石崎:都会はそうはいかないので、いつか学校運営が重荷になってしまうかもしれません。
岡本:あと、子ども達は日本語学校と西語学校との両方に通っていますよね。もちろんここの国民として、西語学校は大切です。しかし、その都合によって日本語学校が負担になってしまう時期もあるので、生徒の通いやすい時間に合わせた学校にしていかないと、生徒が減ってしまう心配もあります。サンパウロなどでは、生徒の時間に合わせて塾型で教えているところが多いとも聞いています。
石崎:将来は生徒のために、そういうサービスをする必要があるでしょうね。これは都会になればなるほど必要です。生徒の数が少ないと、学校自体がしぼんでしまうからです。生徒から月謝として10をもらうなら、その6割は先生の収入とし、あとは学校運営に使うとすると、先生自身も生徒を集める努力をしますよ。
合田:まとめてみますと、パラグアイの移住地型日本語学校は日系社会の中心としての日本語学校です。移住地にはそれが成立するだけの経済的・社会的背景があるからです。
一方都市型の日本語学校は日本人会の要として出発はしていますが、今後は塾型・企業型日本語教室との競争に入って行くでしょう。学校を運営する日会も、柔軟に考えていかないと、遅れをとって他の所に生徒を取られ、日本人会活動そのものが小さくなる危険もあります。都市では日本語学校に対する発想の転換が必要です。単に移住地を真似するだけでは、逆に大きな問題に発展してしまう可能性があります。
今の話の中で、日本語学校の今後についても、見えて来たように思います。地域に裏づけされた移住地型・地域型日本語学校はますます充実を図って行くでしょう。一方、都市型日本語学校では、地域や運営母体に頼った形態から独立採算型・企業型へ移行していかなければ、将来学校運営そのものが日本人会の大きな負担になってしまうということを理解しておかなければいけないと思います。
石崎:私が前にいたサルバドールでも、生徒の都合に合わせて朝七時半から授業をしていました。先生は非常に犠牲を払っていますが、そうやって生徒のニーズに合わせて、やっと生徒が確保できるのです。
また、子供から育てておけば、大人になっても日本語学校へ帰って来ます。今後は多様な授業時間がないと、通用しなくなっていくでしょうね。
合田:都市型では、日本人会の運営者が、学校を戦略としてどう使っていくかにかかっていると言えると思います。子供がないと、日会の活動・日系社会とのつながりそのものがなくなってしまう人も多いからです。
また、日本語学校の前段階として、幼稚園も大切だと思います。幼稚園から中学卒業後、そして成人教室まで日本語学校を広げる事が必要と思います。現在パラグアイでは成人を視野に入れた日本語学校はありません。しかし、アルゼンチン日亜学院や石崎先生のおられたブラジルでも、その日本語教室の生徒の半分以上は成人と聞いています。
石崎:子供はもちろん大切です。しかし、成人もやらなければ、どんどんと他へ取られてしまいます。
合田:移住先輩諸国を見習って行く必要がありますね。
岡本:そのためにも日本人会と会員がしっかりしなければ。
合田:話は飛びますが、日本語教育支援分野の調査団が、ブラジル、ボリビアを視察した際の報告書をJICAからもらっています。ここには先ほど我々が話していたようなことがだいぶ書かれています。
例えば人格育成教育としての日本語教育の重要性について、幼児期の日本語教育が大事ともあります。パラグアイの日系社会では片親のみが日系の家庭を含めて、これを知っているからこそ、幼稚園への入園希望は多い訳です。この期待に応える幼稚園・日本語学校が必要ですね。

ピラポ日本語学校附属幼稚園
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西舘:ピラポでも、日本語幼稚園では、しつけなどパラグアイ社会では教えてくれないことを教えてくれるという期待があります。幼児期の教育を充実には大賛成です。「三つ子の魂百まで」と言いますから。
合田: JICAは今後、本邦研修制度とボランティア派遣、そして汎米合同研修会を有機的に関連付けていくこと、そして、「日本語教育支援の重要性は、国際化を目指す日本そのものが緊急に考えなければならない課題であり、日本は日系社会を参考にして勉強しなければならない」とも書かれています。
西舘:日常的に異文化と共にやっていっている我々としては、お互いに尊重しあう姿勢が出来ています。
石崎:私もかつて、日本とブラジルの謝罪の違いに異文化を感じました。どちらがいいというのではなく、文化の違いがあった時にどうするかというのは、その文化を知っていないと対応できないものです。それが異文化の理解だろうと思います。
西舘:問題が発生したときの責任のとりかたは、日本とパラグアイでも全然違うものです。
合田:この報告書には、「日系社会の事例は今後の日本の事例になる、日系社会の問題はやがて本邦の課題になる」とも書かれています。
西舘:こちらからも日本、JICAについて分析して、レポートを出してもいいね(笑)。
合田:この国では非日系も日本語教育に関心があります。また日本語を広めることは、日本文化を広めることであるし、それを非日系は意識して求めています。今後の国際化社会において、日本国・日本民族・日本文化・日本語は一身同体というか、同じ運命を持っているのです。ちなみにアメリカやイギリスが、国力を推し進めた最大の武器は、英語を広めた事とも言われます。フランスはそれが特に顕著で、経済の影響力以上に、フランス語・文化・政治の影響力が強いと思います。
西舘:戦前には日本が大東亜共栄圏を作るといって朝鮮を併合し、日本語を教えていましたね。今の南米日系社会は、日本語を理解する労働者を供給するという関係もつくっています。時代が変われば交流・経済基盤も変化していきます。日本語教育を進めることは、ひいては本邦のためになるのです。これはあくまで平和的なものです。私の父は、満州は武力で推し進めたために失敗したと言っていました。自国の言葉を戦略に使うのは、世界何処でも一緒です。
合田:南米日系社会の日本語教育に対し、そのような評価を日本政府・関係諸機関からも得たいと思います。日系社会は、今後の日本の生きる道を明らかにする実践の場になっているのです。また日系社会の日本語教育は、異民族・異文化の中で日本語・日本文化が、どのように理解され受け入れられていくかを実験・実践していると捉えて、人材育成のために今以上に協力願えればと思います。
西舘:今後の日本がそうしていきたいと思うのであれば、子供の教育と同じように、金を惜しんではダメです。
合田:そしてここには、その成果を求め、また受け、また生活をして証明する日系人がいますからね。
西舘:ひいては日本民族の評価にもなると思います。
合田:これについては、日系社会自体も今後は、より主体的に受け止める必要があります。これまではどちらからと言うと受身で支援に乗っていくだけだったと思います。今後は自己責任で、主体的な立場から、日本と日系社会のパートナー関係を作って行かなければと思います。
石崎:私もいつも思うのですが、こちらの日系社会が日本と対等な関係を作るような力をつける必要があると思います。日系子弟教育に対する確固とした考え方を持つのが理想です。
西舘:移住初期は手探りで始まった日本語教育が、中期はJICAの指導や助成を受けて進められ、今は社会構造も変化し、JICAも手を引こうとしているので、これからは地元で続けていこうという時代に入っているというのがその流れです。今までの助成金への甘えを超えて、今後どうやって自己負担をしていくかが課題です。
石崎:効率のいい運営が求められるでしょう。ブラジルの移住地では、日会子弟以外は受け入れないという学校もありますが、日本語を日系人のものだけにせず、地域に浸透させ共に発展させることを考えないと、先細りになります。
岡本:JICAや日会に協力や理解をお願いするのは勿論ですが、教育にお金を惜しまないよう、まずは父母の意識も変えてもらいたいと思います。教育は家庭の責任でもあります。今は子供を学校に預けたらそれっきりで、日本語学校は、ただ単に日会が安い授業料で日本語を教えてくれる所という考えになっているのが残念です。
合田:学校運営者は、まず日本語教育そして日本語学校について、もっと父母に、また会員に認識してもらうために頑張らなければいけませんね。
今回は、日本語教育という側面から、日系社会、そしてその先には日本の将来まで見えたように思います。また、そういう見方でやっていかなければ今後はやっていけないでしょう。 本日はどうもありがとうございました。