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部門
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名前
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タイトル
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| 小学1年生 | 福岡 日登美 | こどものひのこと |
| 小学2年生 | 家久 志穂理 | 子どもの日 |
| 小学3年生 | 塩井 美幸 | おうむ |
| 小学4年生 | シルゲイラ 俊樹 | 鼻血を出したじいちゃん |
| 小学5年生 | 竹内 一美 | 盲腸 |
| 小学6年生 | 田中 千咲 | 今年の大豆の収穫に思ったこと |
| 中学1年生 | 家久 佳奈恵 | 「また逢える日まで!」 |
| 中学2年生 | リスボア ルシー | 私の願い |
| 中学3年生 | 三浦 加奈恵 | 日系パラグアイ人として |
こどものひに、にほんごがっこうで、なわとびとどっちぼーるとすもうをやりました。
さいしょは、おおなわとびをしました。いちねんせいは、いっかいもとべませんでした。
なわとびりれーは、いちねんせいは、さんばんでした。れんしゅうしたとき、わたしはぜんぜんできなかったけど、おうちでまいにちれんしゅうして、できるようになりました。
せんせいたちがしたおおなわとびは、とてもおもしろかったです。とちゅうで、ひっかかってころんだせんせいもいました。みんなは、げらげらわらってみていました。でもぜんぶで28かいもとべました。わたしは、すごいなあとおもいました。
どっちぼーるは、わたしたちのちーむが、いちばんになりました。きゃぷてんは、まきおねえちゃんでした。
さいごは、おとこのこたちが、おすもうをしました。ちゅうがくせいがおすもうをやったとき、いたそうだなあとおもいました。こうちょうせんせいが、ちゅうがくせいとおすもうをしてまけたとき、なんだかこうちょうせんせいがかわいそうになりました。
おひるは、みんなであさーどをたべました。とってもおいしかったです。
こどものひは、すごくおもしろかったです。またやりたいです。
アマンバイ日本語学校 家久 志穂理
五月四日の日よう日に、学校の校ていで、子供の日の
おいわいをしました。
校ていには、おとうさん、お母さんたちがたくさんきていました。そして、こ年は、ようちえんのせいともいっしょにおいわいをしました
おとうさんたちは、かわるがわるに、
「ぺったん、ぺったん。」
と、おもちをつきました。
とてもおいしそうなおもちができました。
おとうとのたけひろも、もちつきをめずらしそうに見てました。
「すごいね。すごいね。」
と、うれしそうでした。
おねえちゃんたち中学生は、おかあさんたちといっしょに、つきたてのおもちにあんこをいれて、まるめていました。
もちつきがおわると、わたしたちは、ドッジボールのけっしょうせんをしました。
わたしは、ボールにあたってがいやに出ましたが、わたしたちAチームは、ゆうしょうしました。
わたしは、ドッジボールが大すきです。
わたしたちは、校ていでこいのぼりと、せいくらべのうたを、大きなこえでうたいました。
そしてみんなで、こう白のおもちをたべました。ホットドッグもたべました。
とてもおいしかったです。
空には、大きなこいのぼりがたのしそうにおよいでいました。
こいのぼりは、わたしたちに
「子供の日、おめでとう。」
と、いっているようでした。
アマンバイ日本語学校 塩井 美幸
わたしたちのおうむは、わたしが生まれる二年前にお父さんの、お友だちがコンセプションからもらってきてくれたそうです。
もらった時はグアラニ語ばっかり話していたそうです。
それから、ゆきにいちゃんがローリと名前をつけて毎日家ぞくの名前をおしえたそうです。
ローリは頭がいいのですぐに日本語をおぼえました。
わたしは、いつもローリに聞いていました。
「きみは、おうむなのにどうして日本語がしゃべれるの。」すると、おうむはいつもすましてしらん顔をします。わたしは、あきらめて後ろをむくとおうむは「はははーへーホ。」とわらいます。でも、ローリは人のまねだけではありません。
おなかがすくと「まさと!」「ゆきお!」「みゆき!」と大きな声で何どもよびつづけます。
わたしがえさをもって行くと、ローリは目玉を大きくしたり小さくしたりしてよろこびます。
おうむは、色んなくだものを食べます。でも一ばんすきなものは、トウモロコシとグアジャバです。えさを食べる時は、足でくだものをにぎって、じょうずに食べます。
口ばしは、はもののようによくきれて、とても強いです。くだもののたねとかをパチン、パチンとわって、中みをとてもおいしそうに食べます。
わたしは、えさをやったあとは、かならずとびらをしめます。でも、ある日、だれかがえさをやった後、鳥かごのとびらをしめていなかったのでローリは、とびらを口であけてとんでいきました。
わたしは、何ども「ローリ、ローリ。」と言ってよびつづけました。ローリは、いつもへんじをしてくれるのに何も答えてくれませんでした。わたしたちは、となりの家に聞いたりしました。でもだれも見た人は、いませんでした。
さがしているうちにだんだんとなみだがこぼれはじめました。
わたしは、おへやに行って大きな声でなきました。するとお母さんがきて
「みゆき、そんなになかないでおうむは、森へ帰ったのよ。」と言ってくれました。
それから何日かたって山へ行くとおうむの鳴き声がしたので、空を見上げると十羽ぐらいで楽しそうにとんでいました。
それを見て、やっぱりわたしたちのおうむもさみしかったんだなあ…と思うようになりました。でもローリみたいな頭のいいおうむは、なかなかいないと思います。だから、わたしは、「かみさまどうかローリを家に帰して下さい。」と毎日おいのりをしています。
そして、またローリとおしゃべりがしてみたいです。
ラ・コルメナ日本語学校 シルゲイラ 俊樹
ぼくのじいちゃんは今年七十六才。頭は白がで、顔や手もしわくちゃなのにまだ元気いっぱいで仕事をしています。
ぼくは、生まれた時からじいちゃんといっしょに住んでいるけど、いつも仕事をしているすがたしか見たことがありません。病気をしたとか、けがをしたとかあまりおぼえていません。
そんなじいちゃんが、ある日鼻血を出して止まらなくなりました。朝、暗いうちから起きて何かゴソゴソしているのを見て、
「何したのかな?」
と思って目をさましたら、じいちゃんは顔を血だらけにしていました。
「どうしたの、じいちゃん。」
と聞いたらママとばあちゃんが、
「鼻血が出て止まらないのよ。」
と言いました。ぼくは、鼻をおさえているわたから真っ赤になって流れている血を見たら気もち悪くなりました。ごみ箱の中には、血をふいたわたがいっぱい入っていました。
「え――っ!こんなにたくさん出たの――。」
びっくりしてぼくは泣き出しそうになりました。
「すぐ止まるよ。」
とじいちゃんは言ったけど、鼻血は一週間ぐらいしてもなおりませんでした。ちょっと止まって、またすぐタラタラと出るのです。
薬を飲んでも止まらないので、ママがアスンシオンの病院につれて行きました。車の中で出てもこまらないようにタオルやわたも用意して行きました。
病院で調べてもらったら、血あつが高いので鼻のおくにある血管がやぶれたそうです。心ぞうもはれていると言われました。そして鼻の中をレーザでやいて血管の穴をふさぎました。三日間ぐらいは力仕事をしたらだめですよとお医者さんに言われて、じいちゃんはしょんぼりしていました。
それから少しずつ元気になったじいちゃんは、また畑で仕事をするようになりました。でも、ちょっと仕事をするとつかれるので休むのが多くなりました。ぼくは、じいちゃんの働いている後ろすがたを見て、
「あんなにごっつかったせなかが一回り小さくなっちゃったな。」
と思いました。
こんなことがあってから、
「じゃまだよ。」
と言われても、ぼくは少しずつじいちゃんの仕事を手伝うようにしています。
ぼくは、まだ小さいからじいちゃんのように力は強くなりたいけど、いつか手伝ってよろこんでもらえる日が来ると思います。
イグアス日本語学校 竹内 一美
「うっ、いたっ、いたい。いたたたたた。」
二千二年、八月十九日、月曜日の夜、十時ぐらいに、急におなかがいたくなりました。
きもちわるくもなりました。その夜、私はお母さんとねました。ねる前に、お母さんが体温計でねつを計ってくれました。ねつは、三十九ど五ぶでした。
つぎの日、エステの病院へ行きました。おなかのいたかったところを見てもらうと、お医者さんが、
「もうちょうです。もうちょうですよ。」
と言いました。お医者さんがその言葉を言いおわると、私はなきそうになりました。なんでかと言うと、こわかったからです。
つぎに、もっと大きな病院へ行きました。その病院へついてから一番さいしょにしたことは、シャワーをあびたことです。そのつぎに、ちがうふくをきて、ベッドにねかされました。私は、むねがドキドキしました。とってもこわかったからかもしれません。手じゅつをすることになりました。手じゅつをまつ間、時間がどんどんすぎて行きました。
とうとう手じゅつの時間になりました。むねがもっとドキドキしました。ますいの時、うでがとってもとってもいたかったです。お母さんが言うには、私がうでがいたくて
「いたい、いたい。」
と言っている間にますいがきいて、ねてしまったそうです。手じゅつがおわって私が目をさますと、もうちょうで切ったところがとってもとってもいたかったです。
つぎの日、お母さんが、もうちょうで切ったところを見せてくれました。それは、ビンの中に入っていました。はじめて見たので、ちょっときもちわるくなってきました。
昼近くになって、おなかがすいてきました。でも、ガスが出るまで何も食べれません。おなかがすいてすいて、目まいがしてきました。
それから、おばあちゃんがお見まいに来てくれました。とってもうれしかったです。おばあちゃんが来てちょっとしてから、私はねてしまいました。
目をさました時は、もうお昼すぎでした。かんごふさんが、
「あるく練習をしてもいいですよ。」
と言いました。右足でじめんをふんだ時、とってもいたかったです。はじめはとってもあるきにくかったけど、練習をしているとどんどんあるきやすくなりました。あるく練習をしてからちょっとたつと、もう夕方でした。
おばあちゃんが帰って、私とお母さんだけになりました。へやはシーンとしていました。私はお母さんに、
「ちょっとあるきたくなっちゃった。」
と言いました。お母さんは私をおこしてくれました。練習をしたので、じめんをふんでもあまりいたくなくなりました。
病院のベランダに出て、外を見ました。きれいなあかりが、たくさんともっていました。中に入ると、私はソファーにすわりました。
なんだかきもちわるくなってきました。トイレに行って、もどしてしまいました。
それから五分ぐらいたってから、また私はベッドによこになりました。ベッドによこになって、お母さんといっしょに、しりとりや、小さいタオルなげをしてあそんでいると、ガスが出ました。お母さんが、ガスが出たことをかんごふさんにしらせに行きました。ごはんはにんじんジュースと、スープが出ました。スープは、ぜんぜんあじがありませんでした。ジュースは、一口のんでいやになりました。
つぎの日の朝、お父さんと弟がむかえに来てくれました。弟は、クラッカーをもってきてくれました。
家に帰ることができて、私はとってもうれしかったです。手じゅつをしてくれた先生の名前は、リー先生です。
ピラポ日本語学校 田中 千咲
私は、お父さんが山の畑に収穫に行くころになると、
「家の前はまだ、収穫しないんかなぁ」と、考えます。
それは去年の収穫の時、お父さんが、
「家の所を収穫する時は、コンバインに乗って、テレレをつげ。」
と言ったので、私はうれしくて、思わず
「うん。」
と言ってしまいました。
その日から、四、五日たったある夜のことめずらしく、お父さんが早く家に帰って来たので
「もう山の収穫、終ったの。」
と私が聞くと、お父さんは、
「ニコ。」
と笑って、
「ああ、菅野さんとこが手伝ってくれたおかげで、予定より早く、終った。明日からは、家の周りを収穫する。」
とうれしそうに答えました。
「じゃあさ、私も明日コンバインに乗せてよ。テレレを、ついであげるから。」
と私が言うと
「本当か。明日ちゃんとつげよ。」
と言ってお父さんは、少しつかれた顔で、お風呂をあびにいきました。
次の日の朝、八時ごろになって、倉庫の方に行って見ると…、コンバインが止っていてお父さんがコンバインの部品をはずしていました。
「どうしたの、もしかして、またコンバインこわれたの。」
と聞いてみるとお父さんは、がっかりした顔で、
「ああ、だから、ここを刈るのは、昼頃になるかもしれん。」
と言いました。家には、コンバインが一台しかないので、去年もよくこわれました。そして九時ごろ、お父さんは車でどこかに出かけていきました。きっと部品を買いに行ったんだろうと、私は思いました。ところが私と、お母さんが十時半に買物から帰って来てみたら、もう、家の周りを刈っているじゃないですか。私は、行きたかったのだけど昼ご飯のしたくがあって、乗れませんでした。昼食後コンバインの階段を上ろうとしたら、すごい量の大豆のほこりがつもっていました。私はうれしくて、コンバインの階段をすばやく登りました。エンジンがかかって、コンバインが大きくゆれて、ようやく動きだしました。目の前に広い大豆畑が広がり私の頭の中に、去年の収穫のことが、よみがえってきました。お父さんが運転するコンバインに乗って、大豆のほこりをかぶりながらお父さんと、色々な話しをしたなあ。あっ、ここからあそこまでお父さんに足の操作とか、ハンドルの回し方とか、教えてもらって運転させてもらったなあ、と次から次へと思い出しました。
お父さんがこんなことを私にさせるのは、訳があります。お父さんは、女の子じゃなくて、男の子がほしかったんだと思います。うちは、三人姉妹。上のお姉ちゃんは、あんまり農業に興味を示しません。だから、コンバインに乗ったりする一番下の私に畑の仕事をしてもらいたいと、考えているのだと思います。
私もお母さんみたいに、お花を咲かせたり家族のために野菜をたくさん作ったり、そんな暮しもいいかなあと思います。
お父さんと、お母さんの思い出のいっぱいつまったうちの畑を、私が受けついで守っていこう。そうすることが、お父さんの幸せにつながって、お母さんもきっとよろこんでくれると、コンバインにゆられながら考えました。
アマンバイ日本語学校 家久 佳奈恵
「もう…逢えないね。」
それは、一年前の夏の事です。
「でも、私達が二十五才になったら、またパラグアイに帰って来るから。」
「約束するよ、絶対帰って来るから。」
その言葉を残して、二人は日本へ帰国したのでした。
二人は顔つき、体つき、ともにすごく対照的な双子でした。私は、彼女達に出会って、双子には、一卵性双生児と二卵性双生児とがある事を、初めて知りました。
そんな彼女達が生まれたのは日本の北海道という所です。冬の大雪の時など、家が埋もれてしまうほど大変な所だそうです。雪など見た事も、触った事もない私達にとって、彼女達の話は想像も出来ない、別世界の出来事でした。
お母さんの里帰りについてきた彼女達は、小学二年生に編入してきました。皆は、
「ゆかちゃん、りかちゃん。」
と、親しく二人の事を呼んでいました。が、私は名前ではなく、
「おい、双子!」
と、男みたいに呼び捨てにしてました。
そして、何がきっかけだったのか。気がつけば、彼女達と私と妹は、宿題をしたり、食事をしたり、プールにいったり、お互いの家に泊まったりする仲になっていました。
二人は、
「佳奈恵、佳奈恵。」
と、慕ってくれていたのに私は、なんと、
「双子、うるさい!」
と、意地悪な返事をしていたのでした。
それでも二人は私を見つけては後を追っかけて来てました。そんな事もあってか、二人は周りの人達から、
「佳奈恵のフン(金魚のフン)。」
と、ひやかされていました。
そんな二人にも、いつしか帰国の日がせまっていました。
「佳奈恵、パラグアイでの思い出作りをしたいな…」
ある時、ポツリ…と、二人は少し淋しそうに、そう言いました。
それで、私と妹は、出来る限りの時間を彼女達と一緒に過ごす事にしました。
その頃、丁度、隣国ブラジルでは、エクスポラがあり、私達はもちろん、そこを思い出作りの最後の場所に選びました。
観覧車やジェットコースターに乗ったり、この日は、とても楽しい時間を一緒に過ごしました。その後でとてもつらい事が訪れるとは知らずに…その夜、
「もう…逢えないね。」
二人のつぶやいた言葉に、
「ズキン」
私の胸はものすごい痛みを感じて、目の前が真っ白になりました。
「…」
そして、私は、声を失っていました。
お別れの時には、
「元気でね!」
と、笑顔で送ってあげたかったのに…母は、二人のお母さんに何か挨拶をしているみたいでした。
妹は、手を振っていました。
「バイ、バイ!」
二人の、今にも泣き出しそうなその言葉に私は我に返り、逃げるようにして家の中に駆け込んでいました。
そう、さよならも言わずに…
次の日、あまりにも悲しくて、胸が痛くて、ご飯はのどを通りませんでした。
「もうあの二人に会う事が出来ない…さよならも言ってない…」
私は淋しさと後悔とで、部屋で布団をかぶって、声を殺して泣きました。
そんな私に、母は、
「人は、楽しい事や、うれしい事、そして悲しい事をたくさん経験して大人になっていくものなのよ。佳奈恵の気が済むまで泣きなさい。」
と、背中をさすってくれたのでした。
感情を表すのが下手な私は、好きなだけ泣いたらいいと、教えてくれた母のおかげで、苦しかった胸が不思議と、すうっと、軽くなったのでした。そして、彼女達が約束してくれたあの言葉を思い出しました。
少し自分に都合が良く聞こえるけれど、あんなに仲良くなれたんだもの、きっと分かっていてくれる、そう思う事にしました。
大人になって、もう一度逢えたならば、今度は必ず言いたい…
「また、逢える日まで!」
と。
イグアス日本語学校 リスボア ルシー
「仕事がない!」「仕事がほしい!」
こんな言葉を、私はいつも聞いています。近所に住んでいる人が、スーパーで働いていたのですが、給料が少ないので、そこをやめて、ほかの仕事をさがしました。でもどんなに探しても、高い給料をもらえる仕事がありません。それでまた前のスーパーで働こうとしたら、もう他の人がかわりに入っていたのです。その人は、今仕事をしないでぶらぶらしています。
その人だけでなく、イグアスには仕事をもっていない人がたくさんいます。高校の先生の話では、パラグァイの失業率は15%だそうです。そして35%の人が臨時採用です。だから、仕事ができるのに、仕事がしたいのに、50%の人が仕事がないということになります。つまりパラグァイ人の仕事ができる人の半分はぶらぶらしている………
仕事がないと生きていけないのですからたくさんの人が仕事をさがしているはずです。
日本語学校の先生はよく聞きます。
「将来、何になりたいですか。」
弁護士、医者、化学者、エンジニア、いろいろあります。中学生のときは、なりたいものの名前をすなおに言えたのに、高校生になると言えなくなってしまいます。それは、卒業したあとにできる仕事が限られているからです。だから、もし大学を優秀な成績で卒業した人などは、アメリカやブラジルへ行って仕事を見つけます。国は何もしてくれません。パラグァイは、ますます悪くなります。
パラグァイに、仕事を作りだすためにはどうしたらいいのでしょうか。そうしてパラグァイがよくなるためにはどうしたらいいのでしょうか。
私はこう思います。
先ず、パラグァイの産業は、ほとんどが農業です。それもただ、植えてできた物をそのまま売っています。これは、たくさん植えたら値段が下がります。またこれらの物は、天気によって収穫する量も安定しません。ですから、そこで働く人たちの仕事も不安定になります。これらを安定させるためには、品物の加工が必要です。これを付加価値というそうです。すべて付加価値をつけて外国にだしたらいいと思います。
でもこれをするために、解決しなければならないことがいくつかあります。
先ず、パラグァイの人たちだけでは、大きい工場を作られないので、ほとんどは外国の資本で工場を作ることになります。問題は、この時パラグァイ政府は税金をたくさんとるのです。
五年前に、台湾がイグアスに工場を作ろうとしたら、その許可がおりるまでに、十万ドル必要だったそうです。その他に毎年、税金を払わなければなりませんでした。それらは、高すぎたので、台湾はその計画をやめてしまいました。多分ブラジルへ行ったのでしょう。イグアスのはずれには、台湾政府が建築しかけた門がそのまま残っています。
もし、今、その工場が建てられていたら、たくさんの人がそこで働くことができただろうと思います。
パラグァイでは、外国の資本でなくても、たとえば、お金を貯めてなにか新しい仕事をしようとしても、いろいろな税金をとられてしまうし、道を通る時の通行税は高いし、お金がかかりすぎるのです。
パラグァイの政治をする人が、自分のもうけることだけを考えるので、パラグァイの国は全然よくなりません。
外国の資本や、パラグァイの資本で、先ず人々の働き口をみつけ、安心して働けるようにすること。そのためには、国は、税金をあまりとらないようにして、仕事をどんどんふやしていったらいいと思います。安定した仕事があると、町の中の治安もよくなります。そうすれば、だんだん、パラグァイはよくなると思います。
今度大統領が代わります。大統領や、政治をする人たちが、自分たちの財産を増やすことだけを考えないで、パラグァイが発展することを考えてほしいと思います。そして、発展のために、その考えをどんどん実行してくれる人だったらいいなと、私は心から願います。
これが、「私の願い」です。
ピラポ日本語学校 三浦 加奈恵
して、ピラポ移住地に生まれた。
ピラポは日本人がとても多く、私達二世の日常生活は二十四時間といっていいほど日本語で埋め尽くされている。そのため、母国語が日本語だったりする私は、小学校時代、スペイン語学校での勉強、パラグァイ人との会話が苦手だった。パラグァイ人も、あまり好きではなかった。
どちらかというと、父や叔父達がよく話していた「日本の話」の方が楽しかった。春の桜がとても美しいこと、夏は太陽がカンカン照る海、秋は色彩豊かな紅葉、冬は銀色の雪の世界。「あそこの景色が綺麗だった。」とか「おまえもいつかは絶対日本へ行って見てこい。」がいつもの口癖だった。
そういう話を聞いていると、「何故私は、日本に生まれなかったんだろう。」「父達日本人は、どうしてこんなにも赤土が埃る土地にやって来たんだろう。」
でも多分それは「逃げ」だったと思う。学習で、先生が話しているスペイン語とグァラニ語が一つも解らない自分に、スペイン語の発音が旨く出来ず笑われている自分に腹が立って悔しくて。「日本に生まれていたら、こんな嫌なこと何も無かったのに。」と、いつも思っていた。
そんなある日、父と少し口ゲンカをして、ついつい口に出してしまった一言。
「こんな国に移住して来て、何があるって言うのよ。」
「言いすぎた。」と思い、「ごめん」を言いかけた私の目を見て父がゆっくりと語り始めた。いつもは日本びいきな筈の父が、この国について語ってくれた。
「確かにこの国は、おまえの言う日本などから比べると、経済的にも技術的にも大いに劣る。でもな、父さん達は、この国には充分な土地があるってことを信じてやって来たんぞ。おまえ達をちゃんと養っていくために必要な食物を、この手で作っていける土地が有るってことを。こんなにも平和な土地に生まれてこられただけでもおまえは感謝せなならんのぞ。父さん達も、今にトランスヘニカで成功し頑張って大豆を穫るからな。」
そんなことを話した父の言葉を聞き、私は、スペイン語とグァラニ語をおぼえ、会話がしっかり出来る様になることの重大さに気付いた。と同時に、人種が全く異なる人間同士が同じ言葉で通じ合えることの嬉しさ、楽しさをも知った。それからというもの、懸命に語学について、必死で学んだ。
そしてついに「言葉の壁を乗りこえられた。」と、実感出来たことが起きた。と言うのは、あるスペイン語学校での授業でのこと。「文化をテーマにしたディベート」というのが課題に出た。その時、同じグループになったパラグァイ人のクラスメイトが私もメンバーの一人に選んでくれた。更に、
「日本文化を取り挙げよう。」
と言ってくれた。パラグァイ人が日本文化について興味を抱くなんて思ってもいなかった私は、嬉しさと少々の戸惑いを感じながらも皆とディベートのために必要な情報収集を始めた。
とは言っても、やはり、文化がとても違いすぎるため問題である。日本人のせかせかしたとしたたちと、パラグァイ人のトランキロパなところがぶつかり合ってなかなか作業が進まなかったり、床に座布団をしいて座らせると「こんなのに座るの。」ってな感じで嫌そうな顔をする人もいた。でも、何事も試してみないと解らない。意外な人と息が合ったりして結構楽しかった。
発表の日、やっぱりぶつかり合った分だけ「自分達のディベートが一番良かったな。」という自己満足で満たされた。その上、違うグループの人達が、
「今度日本料理、御馳走してよ。」
「地球の反対側の文化を受け継いでるなんて、感心だねー。」
と言って沢山の拍手をしてくれた。「快感」というものを初めて実感した。
今となっては「何故もっと前からこういう人達と時間を共有しなかったんだろう。」と思ったりする。「笑われるかも…」という弱い心を拭い捨てた今、私には沢山の仲間がいる。この仲間達は、私がこの国に生まれてこられたからこそ、出会えた仲間である。ここに生まれていなかったなら、今、マテを飲みながら笑っている自分はどこに存在していただろう。
たまに、日本の歌手の歌を聞きながらマテを吸っていると、ふと思う。「ここに生まれて来て本当に良かったなぁ。」と…