4.戦後のパラグアイ移住

牛を使い耕す様子(チャベス移住地)
(写真:50年史「栄光への礎」より)
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戦後、日本は敗戦によりアジア地域からの引揚げ者・復員軍人などの1,000万人以上の余剰人口を抱えてその人口対策として政策的に海外移住を進める時代に入ります。1952年にラ・コルメナの創始者宮坂国人氏の名義で日本人農業者120家族の入国許可を取り付け、1955年にはチャベス移住地への入植が始まりました。しかし、日本外務省の一部の反対により混乱を来たし、現地での受入準備や分譲地準備もままならないままに移住者を受け入れることとなり、完全な自給自足に近い生活の中、原生林を切り拓いていくことになりました。

移住当初、テントで暮らす移住者
(フラム(現ラ・パス)移住地)
(写真:50年史「栄光への礎」より)
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現地での受入状態が整備される間もなく次々と移住者がやってきたため、同年6月の4次移住家族の時にはすでにチャベスには配耕地が不足する状態となり、日本海外振興株式会社によって新しく開設されたのがフラム(現在のラ・パス)移住地です。日本からの海外移住者の送出は配耕地の造成や受入準備の速度を上回り、1955年中にはフジ地区、1960年にはラ・パスおよびサンタ・ローサ地区が満植となりました。この過程で、受入設備のない未造成地に移住者を送り込むことになってしまったため、移住者達は極度な困難の中におかれました。
アマンバイへの移住はパラグアイ移住史の中では特異なケースであり、1956年CAFE農園への契約雇用農として入植をもって始まります。しかしながらこの移住に先立っては住居も何も準備されず、コーヒー農園の奴隷に代る労働力として導入されたという背景もあり、その労働条件や待遇は非常に厳しいもので、退耕者はあとを絶ちませんでした。そして1958年にはその雇用主が倒産するにいたり、宙に浮いた移住者のうちで土地を探し、自営入植を進めていきました。

原生林のピラポ移住地
(写真:50年史「栄光への礎」より)
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一方、フラム移住地の満植に先立ち、日本海外移住振興会社(株)が開設したのがアルトパラナ(現在のピラポ移住地)です。この移住地は今までの苦労や困難の経験を生かし、入植前に道路造成や収容設備を整備し、1960年8月から入植を開始しました。しかし基盤の整備はされていたものの、主要都市からは80kmほど離れていたこと、雨が降れば交通が遮断される原始林の中であることで、他の移住地同様の困難がありました。

黒田音次郎公使による移住協定の調印
(写真:60年史「未来への栄光」より)
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そしてその翌年の1961年8月には、1959年に締結された日本パラグアイ移住協定に基づき、イグアス移住地が開設されました。イグアス移住地はアスンシオンからブラジルへ抜ける国際道路沿いということもあり、今までの移住地の経験を生かした移住地として作られ、フラム、チャベスの二男、三男がモデルとなって分家入植し、その後1963年、日本からの移住者を迎えるに至りましたが、おりしも日本では急速な経済成長期に入り、その後は日本からの移住者は減少し、現在に至っています。