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パラグアイってどんな国?

パラグアイ日本人会連合会のあるパラグアイの概要です。

              

CONTENTS


1.地理および気候

南米の地図地理

 パラグアイ共和国(Repubica del Paraguay)は、南米大陸のほぼ中央に位置し、北をボリビア、東をブラジル、南と西をアルゼンチンの3カ国に囲まれた内陸国です。
 面積は約40.7万平方キロメートルで日本の約1.1倍です。国土は、最も標高の高いアマンバイ山地・マラカジュ山地でも海抜600〜850m程で、いたって平坦です。ちなみにトンネルもありません。
 パラグアイの国土は北から南に流れるパラグアイ川によって東側と西側に二分されており、国土の40%を占める東部パラグアイ(ブラジルおよびアルゼンチンとの国境地帯)には「テーラ・ローシャ(Tierra Roja)土壌」と呼ばれる農業に適した肥沃な赤土が広がっており、多くの日系移住地もここに集中しています。一方、残りの60%を占めるチャコ地方と呼ばれている西部パラグアイは、平坦で草原および潅木地帯となっており、人口も少なく主に放牧に利用されている大平原となっています。


パラグアイ地図気候

 

気候は亜熱帯気候に属し、西部(チャコ地方)から東部(ブラジル国境地帯)へ向かうにつれて年間降雨量が増します。また、内陸性の気候のため、気温の年較差が大きく、アスンシオンの年間平均気温は約23度ですが、真夏(11月〜3月)には40度近くになり、真冬(6月〜8月)には場所によっては降霜が見られることもあります。 しかし、一方で真冬の7月に30度を越す気温の日もあるので、注意が必要です。
 また気温の日較差も激しく、特に春(9月〜10月)および秋(4月〜5月)は早朝と日中の温度差が20度を超え、一日のうちに四季があるといわれるぐらいです。

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2.人口・民族・宗教

人口

 パラグアイの人口は約549万人(2000年企画庁人口統計局データ)で人口密度は1平方kmあたり約11人となっています。
 しかし、人口分布は開発の進んだ東部パラグアイに集中し、全人口の98%が東部パラグアイに住んでいます。
 また、主要都市の人口は、首都アスンシオン市が56万人、アスンシオン首都圏133万人、エステ市25万人、エンカルナシオン市10万人で、この3都市を結んだ三角地帯に人口が集中しています。

民族

 1537年スペインによる統治以前には先住民であるグアラニー族が点々と住んでいましたが、1811年の独立後は27年間の鎖国政策がとられ、外国人の入国が禁止されたこともあり、スペイン人とグアラニー族等の先住民との混血が進み、現在のパラグアイ人の大部分は、混血による新しい人種ということができます。

カテドラル宗教

 パラグアイでは憲法で信仰の自由が認められている一方、国教はカトリックと定められているため、国民の約85%がカトリック教徒です。
 (右の写真は、アスンシオンのセントロにあるカテドラルです。)




3.言語

 パラグアイの公用語は、スペイン語とグアラニー語の2つです。グアラニー語は、パラグアイの先住民の言語で、農村部などを中心に広範に使われており、高齢者の中にはスペイン語を全く解さない場合もあります。また、中学・高校では必修科目にもなっています。

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4.国旗・国章など

パラグアイ国旗国旗

パラグアイの国旗は赤・白・青等幅の3色旗で、赤は正義、白は平和、青は自由を象徴しています。また、中央には表裏に異なる国章が配されています。

ブルクジャの花国花

先住民が「Manaka(マナカ)」と呼んでいたもので、一般的には「Azucena(アスセナ)」もしくは「Mburucuya(ブルクジャ)」と呼ばれています。低草で葉は卵型、花は青紫色であとで白っぽく変わります。黄色く熟したナスのような果実は食べることもできます。


ラパーチョ国木

国木のラパーチョ(Lapacho)は、グアラニー語ではタジュ(Taju)と言います。春にはピンク、黄色、白の花をつけ、パラグアイの春のはじまりを告げる木でもあります。

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5.政治・産業・経済の概略

政治

 1992年の新憲法の公布により、三権分立の立憲共和制で、大統領は直接選挙により選出され、その任期は5年で、再選は認められていません。
 中央行政機構としては大統領府の他に11の省があり、内閣は大統領が任命した11人の閣僚により組閣されます。
 国会は二院制で、上院45名、下院80名からなり、選挙は大統領の選挙と共に行われます。主要な政党には、国民協和協会(通称コロラド党)、真正急進自由党、国民会合党などがあります。
 また、地方行政の単位は県で、全国は17の県と、独立した市であるアスンシオン市に分かれています。

産業・経済

 パラグアイの通貨単位は、グアラニー(Gs.)で、1USD=約6,500Gs.(2002年7月のレートによる)です。
 パラグアイの産業は農業、林業および牧畜が主体で、国内総生産に占めるこれらの割合は26.3%で、主要産物は大豆、トウモロコシ、綿花、小麦、マンジョーカ、柑橘類、牛肉、木材、葉タバコ、マテ茶などです。このうち大豆および綿花は主に輸出用として生産されています。中でも大豆は現在世界第5位の生産量をほこっています。パラグアイではこれら農林畜産の第1次産品を輸出し、工業製品および消費物品の大部分を西欧諸国、ブラジル、アルゼンチンなどから輸入しています。
イタイプー・ダム また、パラグアイとブラジルの両国間を流れるパラナ河に設立されたイタイプ国際水力発電所は、1基あたり700メガワットの出力を持つタービンが計18機で、合計12,600メガワットの世界最大の水力発電ダムです。パラグアイで必要な電力はこの1基でまかなえるため、残りはブラジルに売電されています。
 なお、パラグアイのGDPは85.94億USD、GNPは1,505USD/人(1999年、中銀統計)となっています。


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6.パラグアイ略史

スペイン統治以前のパラグアイ

 スペイン人による統治が始まる前のパラグアイは、南米の広い範囲で活動していたトゥピー族やグアラニ族の住む地域でしたが、金銀を求めてラプラタ地域から奥地へ向かっていくスペイン人たちの要塞として、1537年8月15日にアスンシオンが築かれました。その後、アスンシオンはスペイン統治の総督府がおかれ、1617年にブエノスアイレスを中心とした地域とアスンシオンを中心とした地域とに分割されるまで、ラプラタ地域の中核的存在として繁栄します。

スペイン統治時代

トリニダー遺跡 1607年に王の命令により、イエズス会の宣教師達がパラグアイにやってきて、現在アルゼンチン、ブラジル、パラグアイの三国にまたがる地域に先住民達と共に自給自足の村を作りあげました。これはその後スペイン統治に反対したとして破壊され、1767年には幕を閉じますが、現在もパラグアイ南部に残るトリニダー遺跡は、ユネスコ世界遺産に登録されています。


 

パラグアイの独立

 パラグアイ最初のスペイン統治への抵抗運動は、1717年から1735年にかけて起きたスペインの植民地政策に対して植民地民衆の民意を第一とすることを求めた「コムネロス革命運動」といわれています。これは王により弾圧されますが、その後のアメリカのイギリスからの独立やフランス革命などの気運を受け、1810年ブエノスアイレスで新政府が成立します。パラグアイもこれに同調を求められますが、独自路線を選択し、1811年5月15日、パラグアイはガスパル・ロドリゲス・フランシアを中心に革命を起こし、
無血で独立を手にしました。(独立の家の写真)

三国戦争

ソラーノ・ロペス大統領の銅像 フランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領は、1864年、ブラジルがウルグアイの領土を侵攻したことをきっかけに、ブラジル・ウルグアイ・アルゼンチンの三国同盟を相手取ったいわゆる三国戦争に突入しました。当初はブラジルを圧倒したパラグアイ軍も物量に勝る同盟軍に苦戦を強いられ、1870年ソラーノ・ロペス大統領の戦死により終戦に至るまでに国民は134万人から22万人へと激減し、ブラジル・アルゼンチンにイグアスの滝を
含む肥沃な国土を割譲することになり、国土も半減してしまいました。

チャコ戦争

エスティガリビア総司令官の肖像 1932年、海への出口を求めてボリビア軍がチャコ地方への侵攻を進めてきたのをきっかけに、チャコ戦争が始まりました。当時のエウセビオ・アジャラ大統領のもとエスティガビリア総司令官は、数の上では劣勢でありながら、ボリビア要塞に積極的な攻撃を仕掛け、1935年にはチャコ地方の領土を有利な条件で画定しましたが、この戦争には延べ12万以上の兵士が投入され、死者・行方不明者は3万5千人にものぼったと言われています。


独裁から民主化へ

 チャコ戦争後は政情が不安定な時代が続き、政権が何度も変わった後、1954年のクーデターにより政権を握ったストロエスネル大統領による独裁統治が進められました。この政権は35年間にもわたりパラグアイを統治し、安定した時代を築いた一方、言論弾圧などの抑圧的な政策を行い、政権末期には腐敗が横行したため、1989年のクーデターへとつながります。(なお、同大統領は親日家としても知られており、1959年には日本との移住協定が締結されています。)この1989年のクーデターにより政権を握ったアンドレス・ロドリゲスは民主化を約束し1993年、初めての直接選挙によりファン・カルロス・ワスモシ大統領が誕生しました。ワスモシ政権は民主主義の推進を旗印に掲げてメルコスールの定着などの成果をあげながらも、バブル崩壊による金融不安を招き、軍部オビエド将軍によるクーデター騒ぎに発展しました。その後オビエド将軍は与党赤党内での選挙で次期大統領候補として選出されましたが、先のクーデターにより有罪とされたため、1998年にはオビエド将軍と組んだラウル・クーバスが大統領として就任します。その就任3日後にはオビエド将軍も大統領令により特赦となりましたが、反対派との対立はさらに深まり、1999年3月にはアルガージャ副大統領の暗殺事件がおき、民主主義を訴える若者のデモが相次ぎ、大統領は辞任に追い込まれ、オビエド元将軍とも国外へ亡命しました。この結果、憲法の規定により当時上院議長であったゴンサーレス・マキ氏が大統領に昇格しました。そして2003年からは赤党ニカノル・ドゥアルテ・フルトスが大統領となっています。


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